玄善允の在日二世物語ー在日、大阪、済州そして・・・ー

済州出身の両親の次男として大阪で生まれ育った在日二世の呟き

折々のメモ 38の5(おまけ) 復活を目指すはずが・・・の5(おまけ)

 

折々のメモ 38の5(おまけ)

復活を目指すはずが・・・の5(おまけ)

 

10.釈明を兼ねての前口上

前回(38の4)の末尾で、この「復活を目指す・・・」シリーズを終えると宣言しました。2025年10月5日のことです。ところが、その直後から、何としても書き足しておきたくなることが次々に生じたので、我ながら未練たらしいと思いながらも、「おまけ」、或いは「恥の上塗り」として、メモを追加することにしました。

前回の記事をアップした頃には、僕は不安と闘っていました。文章の随所で、そんな内心が透けて見えていたはずです。体重の著しい減少が始まって既に4カ月以上が経過し、快方の気配などないどころか、むしろ自覚症状がしだいに本格化していました。鳩尾の周囲の不快感に加えて全身の倦怠感にはひどいものがありました。

しかし、そうした症状だけならば、ずいぶんと若い頃から殆ど定期的に襲ってくる症状と変わらないので、それほどには心配にならなかったでしょう。ところが、特に夕食時の食欲不振と、夕方以降には頭が熱を帯びてたまらなくなるといった、今までにはなかった症状も付け加わりました。この夏の長期の、とんでもない暑さのせいかもしれないと思いながらも、不安が高じました。

そこでついには、体調が悪くなるといつも相談しては、心配をかけている勤務医の弟に頼んで送ってもらった薬を、当初は一日に一錠だけで試してみたところ、一週間後にも目立った効果がなく、仕方なく2錠に増量もしてみました。しかし、それでも効果がなくて、どうしたものか、不安が常態化、そして深刻化しました。

さしあたっては、その約一週間後の10月11日には、東京の在日韓人歴史資料館での、故塚崎昌之さんが遺した膨大な資料展示を記念するイベントに参加して、友人として話をする約束があり、それをどうするかが懸案となりました。そのイベントに加えて、折角の機会だからと、是非ともと僕からお願いして約束を取り付けていた方々もいました。それを今になって僕の体調不安を理由としてキャンセルするなんて失礼な話で、僕としてはなんとか避けたいところでした。

それでも、睡眠中でも絶えない自覚症状は実に厄介で、せめて微かなものでも好転の兆しがなければ、旅先でさらに悪化するのではと、不安が具体化してきて、上京を決行するか否か、迷いに迷っていました。

だからこそ、たとえ僕が参加を取りやめても主宰者や参加者に迷惑がかからないようにしなくては、と気が急きました。参加者への配布資料を読み流せば僕の話なんかあってもなくてもたいして変わらないような形のものをと、資料の完成を急ぎました。

その結果として、イベントの一週間前にようやく、A4で10枚の配布資料の原稿を事務局に送付して、一安心となりました。その勢いも借りて、ブログの前回(折々のメモ29)の記事もアップできたのです。関係者に迷惑をかける心配がなくなれば、多分に心理的な要素もあるはずの僕の体調も少しは回復するのではと期待もしていました。

ところが、その後も体調は思惑通りにはならず、上京するか否か、ぎりぎりまで躊躇い続け、イベント前日の朝になってようやく、その夜に世話になることを約束している長女と会えれば、少しは元気になるだろうと、楽観を自分に言い聞かせて、上京を決行しました。

 

12.東京への旅

若い頃には何かと余裕がなかったので、旅らしい旅なんてできなかったせいか、中年以降になって、実家の用事や仕事の関係で日本内外への旅を頻繁にするようになっても、旅慣れた感じなんか全くなくて、出発前から何かと心配で落ち着かず、出発時点で既に疲れてしまいます。

旅が嫌いなわけではありません。旅に出て、友人知人と旧交を温めることは、無趣味な僕にとって、実に貴重な時間で楽しいのです。長期にわたってどこにも出かけないと、尻がもぞもぞするほどです。それなのに、実際に旅の予定が決まると、何かミスをするのではとやたら緊張して落ち着かないのです。その結果でしょうか、ようやく到着した旅先で、軽く祝杯のつもりが、ひどい悪酔いになって、その後はとりわけ胃腸の変調に悩まされるというのが、僕流の旅となってしまいました。

さらに、もう一つの悪癖がつきまとうのです。旅の時だけではないのですが、外出の際にはいつも、完成しない草稿を数種類も携行して、ちょっとした空き時間、あるいは、移動中に、それを読んでチェックに励んでしまうのです。乗り物で移動中もホテルでも、どこにいても同じです。ちょっとした外出時はもちろん、旅で非日常を楽しむなんて僕には別世界で、家にいる時と何一つ変わらないのです。まさにワーカホリック、それが持病になって久しいのです。

今回もまさにそうでした。新幹線でもホテルでもカフェでも時間があると、新刊予定の拙著の再校ゲラのチェックに懸命でした。急がねばならない事情もあったのですが、それにしても芸のない話です。景色を楽しむ余裕など、いつだって僕にはなく、旅をする資格を欠いていると言うべきで、旅で心身の復調など望めるわけがありません。ところが、そんな作業のおかげで、体調の悪さも忘れることができるので助かるなどと、弁解まで用意している始末。はたして誰に対する弁解なのか、我ながら呆れかえります。

それはともかく。東京での三泊の予定の初日は、東京在住の長女と待ち合わせて会食後に、彼女が転居したばかりの新しいマンションで泊めてもらうことになっていました。

僕は四半世紀来、出張その他で上京するたびに、東京在住の長女、そして結婚して東京に住み着いた妹のそれぞれと、会食してから一泊させてもらいながら、旧交を温めることを楽しみにしてきました。兄弟や親子で、「旧交を温める」なんて言い方が適切なのか疑わしいのですが、僕の実感はそれが当たっています。家族であることは確かでも、既に独立して暮らしている間柄なので、断じて干渉してはならないという理屈が、僕には非常に強い。それだけに、他の家族とは別個に二人だけで会うことは、それ以前の家族関係とは異なり、そうだからこそ嬉しい時間という位置づけであり、実際にいつもその通りに楽しい時間となるのです。

ところが、その妹も昨年には、結婚以来の東京暮らしを畳んで、夫婦して琵琶湖畔に転居してきました。したがって、僕にとっては、東京出張の楽しみも減って、家族・親族との旧交を温める機会は、長女との食事とおしゃべりだけになってしまいました。しかしそれだけに、まますます貴重な機会にもなったのです。

長女が僕ら老夫婦が暮す塩屋の家に来るのは、正月その他も合わせて一年に2、3回で、1回に付き2,3日です。僕らがその塩屋に転居したのは10年ほど前で、その時にはすでに娘たちは独立していたので、今の僕らの住まいに来ることを帰省などとは言えそうにないし、それ以外で会える機会など殆どありません。

だからと言って僕に不満があるわけでもないし、彼女の生活や生き方に介入するつもりも全くなくて、その程度の距離を保って、何か困った時に少しでも助け合うのが、僕が幼い時から理想としてきた父娘関係です。それだけに数少ない再会の機会は貴重だし、現に楽しい時間になります。二人だけで会って酒を交わしながら四方山話をするのは、家族一同の団欒とはまた別の味があって、僕には掛け値なしのリラックスタイムです。それにまた、親子ですから、もちろん相当な年齢差もあるし、職種や経験も大いに異なるから、彼女の話は僕にはほどほどに刺激的ということも相まって、僕にとって彼女は恰好の酒飲み友達なのです。

僕が東京に着いたのは午後の早い時間、他方、娘の方は会社が退けてからでならないと自由な時間にならないので、実際に会えるまでにはたっぷりと時間がありました。そこで、長女の会社と住まいの最寄り駅である荻窪の駅前に位置する星乃珈琲で寛ぐことにしました。星乃珈琲の荻窪支店は、今や僕にとって希少な寛げる喫茶店なので、僕はそこで時間を過ごせることを楽しみにもしています。

ところが、今回は寛ぎの時間にはなりませんでした。僕はそこでもひたすら、再校ゲラの校正に励みました。

昔は生活の必需品であった喫茶店とも、僕はすでに30年以上も殆どご無沙汰になっています。今や僕が喫茶店に入るのは、旅先の朝食のモーニングセットの為だけで、それ以外で足を踏み入れることなど殆どなくなりました。僕みたいな老人がのんびり寛げる喫茶店をあまり見かけなくなったこともあります。僕が煙草を吸わなくなったことも関係しているのでしょう。それにまた、人気のカフェも何かしら気に食わないのです。セルフサービスの店は、何かと落ち着かない気分になるということもあります。

そんな僕にとって、荻窪の星乃珈琲は夢のような喫茶店で、数年前に長女に紹介されて以来、彼女の家に泊めてもらう際には、いつも一度二度と立ち寄ります。

今回も長女と落ち合うまでの時間をそこで過ごすことに決めていました。すごく広くていろんな用途に便利なスペースがあるだけでなく、昔の純喫茶の雰囲気が漂い、落ち着いたインテリアときちんとしたサービスの空間に入ったとたんに、気持ちが和みます。

それなのに今回の僕は、先にも触れたように、再校ゲラの作業に没頭する始末。そのせいか、食欲がわいてきそうにはなく、楽しみにしていた酒と料理も控えるべきかと、自問していました。

そのうちに、長女が仕事を少し早めに片付けて、約束よりも半時間ほど早めに到着してくれました。いざ顔を合わせると、落ち着いた店で軽く酒と肴を楽しんでから彼女の住まいに向かうほうが良いかと、思えるようになりました。

二人が向かったのは、前回も二人で入ったことがある、長女が行きつけの、昔の雰囲気とサービスの居酒屋でした。長女の会社も荻窪駅の徒歩圏内にあり、徒歩で通勤できるところという条件で住まいも決めており、会社の同僚などとの酒席にも重宝しています。

そこに足を踏み入れると、雰囲気の良さに誘われて、少しは飲みながら軽く食事をしようと積極的な気持ちになりました。その瞬間、「口が卑しい」と亡母によく言われていたことを思いだしました。

ところで、僕は74歳、長女も47歳と父娘ともにさすがに歳をとって、今までと同じように、いつ何時でも飲み食いを楽しむというわけにはいかなくなったことを、前回に思い知りました。

駅前で会ったとたんに娘が、体調の急変を訴えて、トイレに駆け込みました。そして、ようやく戻ってきて、もう大丈夫と、今回と同じ店に入ったのはいいのですが、その店に入ったとたんにまたしてもトイレというわけで、娘は何も食べられそうになく、僕も食欲がすっかり失せてしまったので、すぐさま退散しました。そして、彼女の家に着くと、二人ともにそのまま就寝、翌朝は、寝ている娘をそのままにして、僕だけが星乃珈琲の開店時間である8時に合わせて、キャリーバッグを引っ張りながら20分ほど歩いて、モーニングを楽しみました。

そして、今回は娘ではなくて僕方が体調不良となったわけで、今後はこういうことの可能性を頭に刻んでおかねばならないと思い知りました。老いが確実に僕を支配するでしょうが、それは僕だけではなく、娘にもそれがじわじわとやってくることを、忘れてはならないと思いました。

その居酒屋はさすがに我が娘のお薦めだけに、料理も今時のはやりの外見だけのものではなく、きちんとした板前さんの料理でした。我が家の娘たちは居酒屋経験が一般の人たちよりもはるかに長い。まだ乳児の頃から、籠に入れられて両親と一緒に居酒屋で長時間過ごしてきたベテランなのです。だから彼女たち、とりわけ、長女が選ぶ店は間違いがないと僕はすごく信頼しているのです。この父親にしてこの娘といったわけです。

刺身の盛り合わせの立派さに驚き、鯛の兜の酒蒸しは僕の病んだ心身を癒し、ご飯類は食べなくても、上がりのお茶代わりに味噌汁のサービスをしてもらって、心身が温まりました。

長女の新居を訪れるのは初めてでしたが、相変わらず整理整頓が行き届いた彼女らしい暮らしぶりに、妻の影響に加えて、彼女のセンスが刻印されているという印象でした。できる限り、装飾品などはおかず、シンプルライフを心掛けているらしい。今回の転居の際にも断捨離に心掛けたなどと、親としては驚くようなことを言うので、少しショックを受けながらも、自分の生き方を貫く姿勢は、親として心強く感じました。

娘に勧められるままに、気持ちよくシャワーを浴びて、旅先での僕には珍しいことに、アルコールなしで寝付きました。

 

13.メインイベント

翌朝は起きて身づくろいだけ終えると直ちに、ふたりで星乃珈琲に向かいました。一番乗りかなと思っていましたが、常連客は僕らよりも早い人が何人もいました。早速、モーニングサービスの朝食がてら、1時間ほど四方山話をしてから別れました。今回のメインイベントの会場である在日韓人歴史資料館に着いたのが午前10時、それから関係者の集合時間として指定されていた12時まで、またしても僕らしく、再校ゲラのチェック作業に励みました。

やがては、他の関係者も続々と到着するので挨拶を交わしながら、別階の展示室の塚崎昌之資料の展示を観覧しながら、担当者から説明を受けました。

当分(最低一年くらい)の間は、資料館を訪問すれば、塚崎さんの仕事を想起しながら彼のことを偲べると、しみじみとした気持ちになりました。

 12時前には関係者が一堂に会して、用意していただいたお弁当で昼食を済ませました。普段は麺類で昼食を軽く済ます僕なのに、すごく久しぶりに、飯粒をほとんど残さずに食べてしまいました。決して体調が良くなったはずはなく、食欲が戻ったわけでもない。それなのに、慣れない場だからと緊張して、何も考えないまま食べてしまったのです。後で苦しくなるのではと心配になりました。

開会までにはまだ十分に時間の余裕があるのに、しかも、雨と急な冷え込みなど天候は良くなかったのに、参加予約者が続々と受付を始めていました。見知った人もいたので、挨拶など慌ただしくしているうちに、開始時間が近づいたので、会場前方の指定された椅子に腰を下ろしました。

2年前に塚崎さんと一緒に講演した際には、講堂のような広い会場で、今回もてっきり同じと思い込んでいたのですが、入ってみるとはるかに小さく、椅子がギュウギュウ詰め状態になっていました。

今回は資料館の毎月恒例の土曜セミナーの一環でしたが、前回は特別企画だったからなのか、或いは、その他にも事情があったのか、会場の椅子は予約で満杯とのことでした。終了後の報告で、予約者のうちで欠席者は殆どいなくて、土曜セミナーでそんなことは珍しいことと喜ばしい結果でした。

狭くて演壇もなかったので、話す者と聞く者の距離が近いうえに、壇下から壇上の講演の拝聴を思わせるような上下の位置関係もなく、同じ高さの目線からの語りかけは、親近感が強まるなど、家庭的雰囲気で良かったのかもしれません。

そのセミナーについては、既にこのブログに僕の配布資料だけはアップしており、それを読んでいただければ、当日の様子の一端は推察していただけるでしょう。したがって、ここでは、もっぱら些細なことやそのイベントの後日譚なども記してみます。

先ず、李成市館長の趣旨説明は、通り一遍なものではなく、丁寧で力がこもっていて、資料館の意気込みと用意周到な準備の様子が窺えました。

次いでは、金稔万さんのドキュメンタリー映像(40分)ですが、僕は事前に試作品を見ていましたが、それから短期間に力を振り絞って完成にこぎつけた努力に頭が下がる思いでした。

当初に設定されたプログラムでは、その映像は最後に上映を予定されていたのを、おそらくは石川さんの提案を受けて冒頭に変更したことが成功に思われました。

ドキュメンタリーフィルムにも様々なタイプがあります。事前の知識などあまりなくても、その作品を視聴するだけで分かった気持ちになれる場合もあります。それに対して、金稔万さんの今回の作品は、何の予備知識もない人が一見してすんなり理解できそうなものではありませんでした。塚崎さんの個人史とその業績などについての知識や関心が足りない場合には、難解に感じられるデテールが多々ありました。つまり、それ自体で自己完結したフィルムではありませんでした。しかし、それは決してその作品の欠点ではないと僕は思いました。そのような結果も覚悟しながら、40分という短時間内に、塚崎さんの個人史と、彼に大きな影響を与えたお父さんの、シベリア抑留体験に関する覚書に垣間見られる生き方を重ね合わせながら、作品のテーマをコンパクトに描き切ったものと、僕は大いに評価しました。

しかも、その映像の直後に、石川さんによる塚崎さんの人となりと業績に関する微視的であると同時に巨視的でもある講演が続くことで、映像と文献資料の過不足ないリンクが成立して、参加者の理解と感動が深まったと感じ入りました。

石川さんの講演については、一級品の能力を以前から承知していましたが、今回も期待を裏切らない見事なものでした。資料の堅実さはもちろん平易な語り口によって、大いに楽しみながら、塚崎昌之さんの業績と人となりに関する理解を深めることができました。

次いでの、僕の私的な漫談も、その前にすでに映像と詳細な資料と語りという二つの予備知識を踏まえて、それなりに意味を持った印象と達成感があり、関係者の皆さんへの感謝の気持ちが膨らみました。

会場を埋め尽くしていた参加者にも好評だったとのことに加えて、塚崎昌之さんのパートナーの大田季子さんが、満足そうに見受けられたこと、その両者が僕には最大の喜びでした。

閉会後は、久しぶりに会った方々との挨拶などで慌ただしかったので、瞬く間に一時間が過ぎ、急いで打ち上げの会食に向かいました。(2025年10月23日加筆修正)(「折々のメモ 38の6(おまけの2)―復活を目指すはずが・・・の6(おまけの2)」―に続く)