カテゴリー:触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年近く-在日二世と日本人の交友の形-の1
本シリーズのお化粧直しに際して。
ブログにアップした大量の拙文のチェックが甘すぎた結果、間違いだらけの文章ばかりで、誠に恥ずかしい。そこで以前から、いつかは全面的な校正に努めて、再アップするつもりだったが、その「いつか」がいつになるか、そもそもそれが可能なのか、自信がなくなってきた。
そこで、とりあえず、その第一弾として、この故塚崎昌之さん関連のシリーズの記事から、手を付けることにした。但し、最初にアップした文章をほぼそのままにして、明らかな誤字脱字や、読みにくそうな箇所の若干の修正にとどめており、既にご一読して頂いた方は、スルーしていただければと。
実は、来る10月11日に東京麻布の在日韓人歴史資料館で、塚崎さんが残した大量の資料展示を始める記念イベントで、僕も少しだけ塚崎さんについて語る役を仰せつかって、その下準備の必要も生じたと言う僕自身の都合もあってのことである。
そのイベントで僕が話せそうなことはすべてこのシリーズで記述しており、そこからつまみ食いして、出来る限り聴衆の皆さんにとって楽しい時間になるようにと節に願い、そのように努力したいと思っている。
僕にとって、公の場で塚崎さんについて語る、最後の機会になるだろうから、しっかり、お別れする準備をしておきたい。(2025年8月27日)
第一部 死に至る病
目次
1.はじめにー塚崎さんを亡くして一年ー
2.臨終とその前後
本文
1. はじめにー塚崎さんを亡くしてもうすぐ一年ー
僕が中年から老年にかけて、最も親しく交わってきた塚崎昌之さんが亡くなったのが、2023年9月の中旬、今日は2024年7月30日なので、僕は彼のいない生活を既に一年近くも送ってきたことになる。
その間には折に触れて、彼のことや彼と僕の20年近くにわたる交友のあれこれを思い返し、何かを書こうとした。ところが、書き始めても、それが続かないので、狼狽えた。
彼の生前には、彼のことを分かっているつもりだった。何か事がおこると、彼がどのように考え、どのように対処するかについても、概ね推察がついた。そして、それが大きく外れることはあまりなかった。そのように僕は思い込んでいた。だから、彼のことなら、その気になりさえすれば、いつでも書けると高をくくっていた。
ところが、そうはいかなかった。書けたのは、僕自身から見ても支離滅裂な落書きばかりで、それ以上には一歩も前に進めなかった。しかも、それよりも困ったのは、書こうとすると彼が遠ざかっていく。彼と僕の関係の実相には全く近づけなかったことである。
彼を亡くしてようやく知ったり、気付かされたりすることも多く、不意を衝かれてばかりだった。僕の塚崎昌之像がいつも小刻みに、時には大きく揺らぎ、不安になった。
<急な>逝去を悼んで、塚崎さんを偲ぶ催しなどもあったらしく、多くの人が各人各様に彼のことを語ったり、書いたりしたものの一部を読ませてもらった。それを通じて、彼の履歴、業績、交友、その他に関して、初めて知ったことも少なくなかった。
とりわけ、彼の他者、とりわけ年少の人々に対する寛容や細かな配慮の数々が、僕の見知ったものと段違いだったことには圧倒された。
そんな体たらくの僕が、彼について何かを書いても、既に広く知られたことばかりだろうし、その程度のことでも、僕の手には余りそうで、怖気づくほどだった。
ところが、翻って考えてみると、僕がこれまでに考えたり書いたりしてきたことは、甚だローカルな物事の、ごく一部に過ぎなかった。その点を自認したうえで、それがせめてもの存在価値と居直ることで、辛うじて書いたものばかりだった。
例え些細なことでも、自分なりに関心を持った物事の一面に、意味を見出し、その意味について考えたり感じたりしたことだけを書いてきた。
それは自己認識の繰り返しの再確認の試みにほかならず、僕の書きものの対象は、究極的には自分自身に他ならなかった。僕にできることはせいぜいその程度といった諦念が、僕の書くという行為の起点であり、到達点でもあった。
そんな僕だから、塚崎さんについても、同じことしかできない。そんなことなど、改めて言うまでのこともないのだが、今回はこれまでにもまして、その態度に徹してみようと考えた。
塚崎さんとの交友において、僕が何を見て、何を感じ、何を考え、何を喜びとし、何に苦しんできたのかを、できる限り正直に書きとめたい。
それが誰かの何かに役立つなんてことはないだろう。そんなことは決して望まず、もっぱら自分に対して正直に書きとめることで、僕と塚崎さんの交友の意味を確認できれば、それで充分である。そのように、自分に言い聞かせながら、書けるところまで書いてみることにした。
実は、それを怠ると、僕の余生にとっても重荷になったり、恥ずかしいことになりかねない。そんな危惧もあった。塚崎さんに潔く別れを告げるためにも、書けることを書いておくことが、誰よりも僕にとって必要なのである。
それはきっと、僕自身の人間的欠陥や過誤の告白を含んだものになるだろうが、それこそが塚崎さんとの交友における僕の正体だったのだから、塚崎さんに対する僕の遅ればせのお詫びの表明にもなるかもしれないとの淡い期待もある。
利口ぶって生きるよりは、恥をさらしながら生きる方が僕に相応しい。塚崎さんもそんなことくらいは十分以上に承知の上で、僕と付き合ってくれていたに違いない。きっと許してもらえるだろうと、またしても勝手なことを、彼が亡くなってからも押し付けようという魂胆もある。
ともかく、先ずは僕が知る限りでの塚崎昌之さんの臨終とその前後のことを辿ってみる。
2.臨終とその前後
その日の夜明け前、ベッドでうつらうつらしていると、枕もとの携帯の電話音が聞こえた。その瞬間、塚崎さんの異変の連絡と察した。夜明け前に僕にかかってきそうなのは、それしかなかった。だからこそ、怖さのあまり電話を受けるタイミングを逸してしまった。
しばらくしてから、残されていた音声メッセージだったかSNSの文字メッセージだったかで、推察が正しいことを確認して、今さらながらに茫然となった。
気を落ち着ける時間が必要だった。起き上がって洗顔などを終えてようやく、塚崎さんの生涯の伴侶である大田季子さんに電話した。そして、彼女の肉声で、塚崎さんが危篤状態に陥っているという、予想通りのことを告げられた。
西神戸のわが家から塚崎さんが入院していた南千里の病院まで、JRで三宮まで、そこで阪急神戸線に乗り換えて十三まで、そこでまたしても京都線に乗り換えて淡路まで、そこで千里線に乗り換えといった具合に乗り継いで、勝手知った南千里駅に着いた。
そこからは徒歩で数分とかからない済生会千里病院では、休日のまだ早い時間だったからか、ほとんど人影が見当たらなかった。
病室には大田さんの他に、中年の幾人かの男女の姿が見えた。ご親戚が急遽、駆け付けられたのかと思ったが、そうではなかった。塚崎さんの高校教師としての最初の頃の教え子で、その後も長らく付き合いが続いている人たちとのことだった。
既に数十年前の教え子との交友が、臨終の床に逸早く駆け付けるような形で続いていることに驚いた。以前から話には聞いていたが、教師を天職とみなしていた塚崎さんらしい、と改めて思った。
塚崎さんはベッドに臥して、苦しそうでも規則正しい呼吸をしていた。しかし、殆ど意識がなさそうな塚崎さんの姿を見ているのは、忍びなく、僕には荷が重すぎた。塚崎さんのそんな姿か目と意識をそらさないと、耐えられなかった。
たまたま回診にこられた主治医と大田さんに、塚崎さんの<異変の始まりとそれ以降>について、僕がそれまでに考えてきたことをかいつまんでお伝えしたところ、主治医は知らなかったことがいろいろとあるらしく、少し驚いた様子だった。しかし、だからと言って、話が弾むわけでもなかった。
僕にできそうなことは何もなかったので、まるで逃げるように病室を後にした。
その日の午後になって、改めて大田さんから電話をいただいた。急遽して東京から駆け付けた長女の稔さんの到着を待っていたかのように、塚崎さんは静かに息を引き取った、とのことだった。しかし、稔さんが存命していたお父さんの姿を見て、彼を見送ることができたのかどうか、正確なことは聞き逃した。
次女の光さんは、前日に塚崎さんが少し安定を取り戻したのを確認して、沖縄に戻ってしまった。その後で塚崎さんの病状は再度、悪化して危篤状態に陥った。そこで大田さんは長女の穂さんに連絡して、穂さんが東京から新幹線で病院に向かっている頃に、僕は病室を訪れ、そして早々とそこから逃げ去ったのだった。
主治医と大田さんの話を僕なりに整理すれば、こうだった。心不全に始まって、それが身体全体の機能不全に進み、全身の機能不全のせいで亡くなった。しかし、詳細がどうであれ、いかにも塚崎さんらしい最後などと、僕は無理やり納得しようと努めていた。言いかえれば、納得できていなかったのである。
医学的な詳細、例えば、心臓病と意識を失う原因となった脳出血との関係などについては、僕なんかに分かるはずがなかった。しかし、あくまでその間の見聞に基づく僕の勘によれば、塚崎さんの死は単純な因果関係で説明がつかなかった。循環器内科の専門医で、塚崎さんとも面識のある弟にも、そのことで僕の知る限りの情報を与えながら質問し、彼からもいろんな可能性について説明を受けたりもした結果も合わせての、その当時の僕の認識は次の通りだった。
塚崎さんの死への道程は、随分と以前から始まり、2年ほど前からは、相当に具体的な形で表面化していた。それなのに当人が多様な理由で、頑なに受診を拒否、或いは、怠った代価として、塚崎さんの心身の奥深くに潜んでいた病が、緩慢ながらも確実に進行し、ついには彼を死に至らしめた。
病室でたまたま出会った主治医でさえも、そんな塚崎さんの病の進行過程を正確に把握したうえで、適切な対応ができたようには思えなかった。しかし、塚崎さんの死に関して主治医に責任があるなどと、乱暴なことを言おうとしているわけではない。そんな資格など僕にあるはずがない。
しかし、塚崎さんとその周辺の者たちが、事態を正確に把握することを何かが妨げていた。その最大の責任者は。ほかならず塚崎さんご本人であり、そんな事情をうすうすは感づいていた周囲の僕たちにも、その責任の一部くらいはある。そのように当時の、僕は思っていた。
したがって、多くの人が語っていそうな「急死」というのは、当時の僕の感触とは程遠かった。しかも、それは僕ひとりのことではなかった。僕と同じ印象を持っていた人が、僕以外にも幾人かいたはずである。(2025年8月28日午前2時半に改稿して再アップ)