玄善允の在日二世物語ー在日、大阪、済州そして・・・ー

済州出身の両親の次男として大阪で生まれ育った在日二世の呟き

余生の三題噺もどき1-ウォーキング篇-の(5)の2

余生の三題噺もどき1-ウォーキング篇-の(5)の2

9.ジェームス山のコンセプトと旧三洋電機、そして旧三洋電機と我が家の因縁

2)三洋電機と我が家の因縁

我が家の<主人筋>だった三洋電機
大阪の在日の弱電関係の下請けにとってのヒーローだった松下と三洋
大企業とその協力会社とブローカーと下請けの4者関係
<へなちょこ学生>の自覚を余儀なくされた職工体験
<下請け孫請け>泣かせのブローカ―の小間使い体験
言い落したことのリカバリーなど

本文開始

2)三洋電気と我が家の因縁

我が家の<主人筋>だった三洋電機

以上のように、僕が下種の勘繰りばかりか、他人頼みの願掛けまでする羽目に陥ったのは、少しハードな散歩で老化と闘うことを自分に言い聞かせても、ついつい頭をもたげる怠け心に勝てそうにない。そこで防波堤としての動機付けには地域探索が有効ではないかと、いかにも僕らしい計算があったからなのだが、それに加えて、幼い頃、つまり半世紀以上もの長い歳月を経てかび臭くなった因縁話なども絡んでいた。
 要するに、僕が生まれ育った家と三洋電機の因縁などという私的事情も、現在の我が家が位置する地域事情の探索や詮索の遠因だったというのである。
三洋電気はかつて我が家の<ご主人筋>だった。しかも、三洋の創業者と同志かつ義兄弟の関係もあった松下幸之助松下電器パナソニック)もまた、我が家ではサバイバルの祈りにつがる希望の星の時期があった。
 1950年代も後半になって遅ればせに我が家でも揃い出した家電製品のほぼすべてを、我が家は近所の<三洋の電気屋さん>から購入していた。それには、その店主の頑固なまでに丁寧な仕事ぶりとその奥さんの親身の対応が作用していたことは勿論だが、少なくともその当初には、その店が三洋電機の特販店であり、我が家がその三洋電機の傘の中に身を置いていたという事情の方が大きな理由だった。
 その店の頑固一徹の御主人がやがて、まだそんな歳でもないのに急死してからは、並外れて親切で優しい心映えと言葉遣いの未亡人と、亡き父親に劣らず頑固で、仕事に対する責任感の塊のようだった跡取り息子さんに対する我が家の全面的な信頼がゆるぎなくなると、もはや三洋電機といった雲の上の存在は過去のものだから関係なしに、電気製品や工事などは何であれ、その店に頼るようになった。
 その跡取り息子さんはその勤勉と誠意で順調に店を継ぐばかりか、そうした仕事ぶりと暮らしぶりが周囲の誰からも信頼された結果、町内会の会長に選ばれると、今度は地域住民への奉仕精神の塊にもなって、20年以上もその役を務めた。ある時には、町内会関連で刃物で威嚇する業者に対しても、一歩も引かず、自らの考えを主張したといったエピソードが別の町内会の我が家にも伝わってきたほどだった。
 我が家とその<Yさんの兄さん>(そのように僕は呼んでいた)と<Yさんのお母さん>との付き合いは延々と続き、その二人の老齢化のために致し方なく廃業に至るまで、我が家もコウバも電気関係で何か困ったことがあると、他の仕事などさておいて駆けつけてくれた。
 
 それはさておき、現時点で少し客観的に考えてみると、我が家のコウバと三洋電機との関係など、実はそれほどのものでもなかったとも言えそうである。我が家のコウバが三洋電気の孫請け仕事をしていたことはなるほど確かだし、一時は、そのおかげもあってコウバが、そしてその延長上では我が家も、なんとか生き延びることができた。しかし、我が家のコウバは三洋の仕事をしていたが、それはあくまで孫請け仕事だったので、三洋電機の社員の誰一人として、我が家のコウバのことなんて知るよしもなかった。我が家のコウバの職人さんたちや我が家族が大地の底から、雲の上の三洋電機を見上げながら片思いをしていただけだった。
 三洋の孫請けの仕事のなかでも僕が最もよく覚えているのが、我が家のコウバではトランスと呼び慣らわしていた弱電製品の部品だった。3㎝×4㎝×2㎝くらいの黄色いベークライト製(当時の我が家のコウバの主力のプラスチック原料及び工法の名称で、その後の1970年前後からは、厳しい肉体労働が必須のその種の単純な機械と工法から、単純軽労働になったが、その分だけ長時間で人間が機械の奴隷のように支配されるインジェクションというほぼ全自動で高価な機械を用いた材料と工法に一変する)の製品で、直径が2ミリ程の穴が3つ並び、製造過程で<バリ>と呼ぶ不要物がその穴を薄く塞いでしまうので、ボール盤に、その穴に適したサイズのドリルを設置して、それで穴を貫通してようやく納品できる完成品になる。加工された製品に最後のちょっと付け加わる作業の総称が<仕上げ>で、実に多様な作業が含まれていたが、その作業はたいてい内職に出したり、臨時雇いの下働きのおばさんや母や僕ら家族が担当していた。
 ボール盤の前に腰を下ろして、両手の親指と人差し指でしっかりとトランスを持ち、高速回転するドリルの近くまで持っていき、目算で穴をドリルにあてがって、その穴にドリルの先端が当たりそうな勘が働くと、ただちにトランスをまっすぐ上下運動させて、穴をふさいでいた薄い<バリ>を貫通させる。そのようにして一つの穴が終わると残りの二つの穴も続けて開いてようやく、その製品の仕上げは完了なのだが、毎日、職人がプレスと金型を用いて次々に製造するトランスのすべてに、延々と同じ緊張を強いる作業を続けなくてはならなかった。
 そのせいで、時に緊張が緩んで手がぶれたりでもすると、バリではなく自分の指をドリルで傷つけかねず、確かな視力と微妙な手の動きの確かさなど総合的な集中力が必須である。だから既に相当な年輩のおばさんたちや母には難しく、その種の能力に関しては大人よりも役に立ちそうな子供、すなわち僕らにお鉢が回って来る。
僕らにすれば、製品の数の確認や、納品した製品が不良品として返品された場合に、大量の返品から不良品を選び出す作業などの仕上げ作業と比べると難しい穴あけ作業だから、挑戦の側面もある。それに周囲の大人たちに一人前に認められたい気持ちもある。そして、そんな気持ちを見透かした大人たちの「チビのくせして、一人前やないか!」などと称賛の声でも聞こえてくると、ますます本気で打ち込むことになる。しかし、やがては手と腕が硬直し、目が熱を持ち、頭も朦朧としてくる。
 そこで、適当な間隔、例えば15分に一度くらいは、電源を切ってドリルの回転を止め、先ずは両腕と両手を大きく振って筋肉の緊張をほぐし、目をしばたかせ、さらには全身の伸びまでして全身の弛緩と気分の転換を図る。そしておもむろに作業を再開する。それでも、ふとした拍子に指先を軽つけることくらいは日常茶飯事で、指先にはいつも絆創膏を巻いていた。今でも何かの折に、あのドリルが指先に触れた際の痛みのことを想い出すと、殆んど条件反射のように背筋がヒヤリとする。

 トランスというのは、その名前からして電気の変圧などに関係する部品だったようで、あの小さな三つの穴は、電線を通すためのものだったのだろう。しかし、コウバの主である父でも、その部品がどのような働きをするものなのか、僕らより詳しかったのかどうかは怪しい。そもそも、そんなことは知らなくても何の不都合もなかった。我が家のコウバは、受注した製品が最終的にどのような機能を持ち、どのように使われるかといったこととはまったく無関係に、もっぱら部品としての製品を製造・納品すれば役目は終わる。要するに、製造過程における部品のような存在にすぎなかった。
 ともかく、トランスはそれまでに孫請けとして受注してきた数多くの他の製品よりも利益率が高いだけでなく、長期にわたって安定した受注が続いたので、我が家のコウバは60年代半ばころまでは、そのおかげでなんとか生き延びることができたらしい。折に触れて父と母が洩らすそうした感慨の言葉を耳にするうちに、僕もまた三洋電機に深い感謝の気持ちを持つようになった。そんなわけで、三洋電機は我が家の輝ける星のような位置にあった。

大阪の弱電関連の在日の製造業者にとってのヒーローだった松下と三洋

 しかし、我が家のコウバではやがて、三洋電機よりも松下電器に関連する仕事が増えて、そのあげくには三洋との縁が切れた。但し、それは父の意志などとは何の関係もなく、我が家のコウバが仕事の半分くらいを受注していた三洋と松下双方の協力会社だったA社が、三洋よりも大手で利益率の高い松下電機との関係を深めた結果、つまり、我が家のコウバにとっては他律的な変化の結果だった。
 しかも、そうした変化は一般的には歓迎されることだった。何といっても三洋よりは松下の方がはるかに大きな企業だったし、松下は家族主義経営を謳い、会社全体ばかりか、その関連会社の評判もよかった。松下からの直接の受注であれば、下請け泣かせの長期手形による支払いはなく、受け取った手形を銀行その他の金融会社で現金化する際の高利の利子も不要となり、金繰りの心配が大幅に減って大助かりである。その上、松下から直接に受注した場合には、他の会社からの受注と比べて利益率が高かったので、関係会社としては願ったり叶ったりだった。

 ところが、我が家のコウバは松下からの直接の受注ではなかったので、支払いも松下からではなく、松下から受注し、我が家のコウバなどに発注していた松下の協力会社という名の下請け会社であるA社から、以前と変わらない支払い方式、つまり半分は現金、半分は3か月から6カ月の長期手形の支払いを受けており、しかも、場合によっては、その間にまたブローカーを挟むことを強いられることもあった。したがって、本来は恵まれたはずの利益の多くをその段階で<抜かれてしまう>。要するに、松下の仕事のおかげで増えるはずの利益などは、我が家のコウバのような孫請け業者に回ってくるわけもなく、良いことなど殆どなかった。
 それでも、そうした雲の上の存在だった井植歳男社長や松下幸之助社長に対する父を含めた在日の弱電関連の零細業者の憧れや尊敬は尋常ならず、しかも持続的なものだった。在日の父の同業者の中には、在日の北系組織、そして北の共和国に対する熱烈な支持者も少なからずおり、その人たちは左翼民族主義を信奉していたはずなのに、松下幸之助氏と井植歳男氏の義兄弟が資本家だからと言って、更には、彼らが戦争協力を追及されて公職追放になった過去を持っているからといって、二人を非難攻撃するようなこともあまりなかった。その程度のことにも無知だったからではない。時にはそんなことが話題になり、激論を交わす現場をまだ幼かった僕でも目撃することがあった。しかし、そんな激論も最終的には、「いろんなキズがあってこその大人物」といった評価に収斂して、清濁あわせ飲みこむことで大人物になった二人に対する憧憬には何ら変化もなく、万々歳で終わった。
 大阪の在日の弱電関連の下請け・孫請けの零細製造業者たちにとっては、一方は淡路島、他方は和歌山からはるばる大阪に上がって来て、そこで叩き上げの成功者となった二人は、済州島から大阪まで越境移動した自分たちにダブルイメージされたりもして、終生のロールモデルでありヒーローだった。今の僕から見れば、不思議なことのようでもあるし、当然のことのようでもあるなど、なかなか微妙な心持である。

大企業とその協力会社とブローカーと下請けの4者関係

 因みに、その松下電器の下請・孫請の仕事に関しては、僕は学生時代に、いろんな縁が重なって、知らなくてもいいことを知ってしまうなどして、うんざりすることが何度もあった。知らなくてもいいこととは、知ったからと言って自分に何もできそうにないので、無力感を募らせるしかなったからである。但し、僕ではなくて他の誰か、例えば野心に燃えた若者ならば、その経験を活かして、酸いも甘いも一緒に飲み込んで逞しく成功するための糧になったかもしれないのだから、結局は僕自身の性向とか生き方の問題に帰着しそうな事柄だった。
 ともかく、僕は我が家の長い因縁に由来するアルバイトをするうちに、発注元の大会社とその協力会社の間どころか、その協力会社という名の下請け会社とそこから孫請けする零細業者との間には、さらに過酷な格差が構造的に、しかも、多様な人々の狡知によって日々生み出される現場を間近から目撃した。つまり、利益の相互供与と分配比率の折衝と妥協の場としての<接待>に何度も立ち会って、そんな生臭い世界に僕なんかは耐えられそうにないと、無力感に苛まれることになった。
 先にも触れたように、以上のことはすべて我が家の長い縁が絡んだ話で、その縁の説明がこの話を分かって頂くためには必須ということもあって、話が長くなりそうである。ご理解、そしてご容赦のほどを。

 僕がまだ幼く、我が家がまだ中二階建ての4軒長屋の端で暮らしていた頃のこと、そして父が我が家とは別の、我が家の集落の隣の集落の端にあった長屋の一軒を借りてコウバを始めて間もなくの頃だった。
 父の右腕として活躍すると同時に、我が家の中二階を間借りして新婚生活を始めたN兄ちゃん夫婦にも、やがて子供が生まれ、それからしばらくすると、親子三人で長年の憧れの<北への帰還船>に乗りこんだ。
 そのN兄ちゃんは元来、北系の青年組織の活動家の中でも雄弁と強力なリーダーシップで名を馳せており、その若奥さんもまた熱心な活動家だったので、それは至って自然なことだから、コウバや界隈や在日のネットワークのあちこちから実に多くの人たちがお祝いと別れの挨拶のために駆け付けて、我が家で送別会を大々的に行った。
その時の兄ちゃんはお礼の挨拶の際に、僕を両腕で天井に届かんばかりに高く掲げて、「お前もいつかは<祖国>に帰って来るんやど。待ってるぞ!」と僕に別れの言葉と、希望に燃えた眼差しを残して去った。
 そして、そのN兄ちゃんの穴を埋めて、父の右腕二号として奮闘してくれたのが、N兄ちゃんの弟分で、やがてはN兄ちゃんの美人で評判だった三人の妹たちの一番上の姉さんと結婚したM兄ちゃんだった。
 M兄ちゃんは、在日集住地区として有名な生野区で指折りの富裕な家の長男だったが、母親が亡くなった直後に家に入いりこんできた継母との、さらには、子どもの気持ちを無視してそんなことを強行した父親との仲が極端に悪くなった。そしてついには、家を飛び出し、我が家の近くの在日の集落で暮らし始めると共に、N兄ちゃんの紹介で我が家のコウバで働くようになった。その二人とも色白で聡明そうな二枚目という意味では本当の兄弟のように似ていたが、N兄ちゃんが情熱的で頬を紅潮させて熱弁を奮うのに対し、M兄ちゃんの方は真面目になるほど、顔色が青白くて冷静な雰囲気を漂わせるといった対照的な側面もあった。しかし、二人とも人望があり、とりわけ女性陣は老若を問わず、二人の熱狂的なファンだった。僕の母もそのうちのひとりだった。
 そんなわけで、そのM夫妻と我が家は、北へ去ったN兄ちゃん一家三人のまだ新しい記憶も重なって、強い絆で結ばれていた。
 その数年後には、<M兄ちゃん>は我が家のコウバから独立して自前のコウバを始めた。もちろん、僕の両親の了解と物心両面の応援も得てのことだった。自分たちが借りていた小さな長屋の端の一軒の玄関、そしてそれと接する小部屋も土間にして、2台の機械を据えた。同じ長屋の隣家では、Mの姉ちゃんの3番目の兄さん(北へ帰った兄ちゃんのすぐ上に兄さん)もほぼ同じころに、同じようなコウバを始めた
 
 その二つの新しいコウバのどちらも開業資金が十分でなく、コウバの広さにも余裕がなかったので、必要最小限の設備だけで出発し、当初は父から仕事を分けてもらったりもしていた。そして、必須の設備のうちで仕上げ作業に不足するものがある場合には、我が家のコウバに半製品を持参して完成品に仕上げるなど、我が家とは親密な関係を継続していた。
 M姉ちゃんは僕の母のことを<姉ちゃん>、或いは、父のことを名前の最初の漢字を冠して、<文ちゃん兄ちゃん>と呼んでいたのに倣って、<文ちゃん姉ちゃん>と呼ぶなどして、しきりに我が家に出入りしてひとしきり、おしゃべりを堪能すると、いかにも快活そうな声と表情を残して帰って行くのだった。
 そもそも、その夫婦ともに済州出身の親から大阪で生まれた在日二世で、とりわけM姉ちゃんの両親、つまりN兄ちゃんの両親と我が家の両親との関係は、僕の両親たちがその地域に住み始めた時以来のことだったから、M姉ちゃんがまだ少女時代からの付き合いだった。母が後に僕にそっと洩らした話では、M姉ちゃんは子どもの時から「可愛いいけど利かん気のじゃじゃ馬娘」の評判だったらしく、僕もなるほどと納得したものだった。
 さて、我が家のコウバから独立したそのM夫妻はその後、周囲が予想していた以上に順調だった。二人とも大阪生まれの大阪育ちの在日二世だったから、我が家の両親のような一世とは違って、非識字や大阪弁や大阪の文化や習慣などに対する戸惑いがあるわけもなく、しかも、在日はもちろん、日本人の親しい知人、友人にも恵まれていた。しかも、二人とも姿かたちが良いだけでなく、気さくに人付きあいを楽しめる人たちだった。しかも、夫婦ともに運動神経に優れて、負けん気なんかもなかなかのものだった。
 そんなこともあって、得意先の担当社員などとの付き合いなどもまるで友達付き合いの延長のようにこなした。当時はまだ珍しかったゴルフにも、在日の零細業者の中では逸早く手を染めて、その趣味のゴルフを潤滑油にした接待も随分と頻繁にしていた。
 しかも、若い世代らしい感覚なのか、我が家では古臭い倹約精神に縛られて、ミゼットという当時流行の三輪自動車やバイクしか持たなかった時代に、高級感で人気だった乗用車を乗り回し、それがステイタスとなって得意先の信用を取り付けるのにも役立ったようだった。そのあたりのことも、したたかに計算していたのかもしれない。或いはまた、腫れて独立して小さくても事業主となったからには、何を憚ることもないからと、裕福な家の跡取り息子の<地金>を発揮しただけのことだったのかも知れない。余裕を含めた上品な立ち居振る舞いも、そうした出自に由来していたのかもしれない。ともかく、瞬く間に、我が家なんかよりも羽振りが良さそうに見えるなど、まさに順風満帆だった。ところが、「好事、魔多し」という諺通りに、そんな兄ちゃんがいきなり病気で入院したという話が伝わってきた。
 子供の僕なんかにはそんな気配など微塵も感じられなかったが、実は、M兄ちゃんは若い頃から腎臓に持病を抱えていたらしく、それが急速に悪化してのことだった。人付き合いがいい人だったから、自前のコウバを始めると、いくら慎んでも酒量がついつい増えたのだろう。それにプレスと重い金型を相手の厳しい肉体労働の疲労の蓄積も重なっていたのだろう。当時はまだ巨額の費用を要した人工透析も厭わず、懸命な治療を続けたが、40歳代前半の若さで亡くなってしまった。
 姉ちゃんと、中学一年生の長女を筆頭に末っ子が2,3歳の男の子の5人の子供たちが残された。姉ちゃんは他に手立てなどあるはずもないから、亡き夫のコウバの仕事を女手ひとつで引き継ぐことにした。成人男子でもなかなかきつい肉体労働であるプレスを回し、重い金型も手際よく扱った。また、普通はある程度の年輩女性を随時に雇って任せる仕上げ作業なども、自分でこなすなど、身を粉にして踏ん張った。
 その他、近くの日本の大会社の工場で働く日本人青年が、定時の5時に退勤した足で駆けつけて、パンなどで軽く腹を満たして、5時半頃から9時頃まで、プレス仕事をしてくれたのも大いに助かった。但し、その青年は義侠心などでそんなことをしていたわけではなく、彼なりに事情があったのだろう。勤務先の仕事は楽だが物足りなく、給料も高が知れているので、週日は5時半から9時半まで、土曜日は半ドンだから、午後の1時にはやってきて夕方7時頃まで、さらに日曜日も時には終日、働いた。

<へなちょこ学生>の自覚を余儀なくされた職工体験

 実は、そんな姉ちゃんのコウバの事情や様子を、僕は一般の人よりよく知っていた。僕が大学の一年もそろそろ終わりそうな頃に、姉ちゃんが例によって我が家に立ち寄って母と話し込んでいた際に、プレス仕事の職人を探していると話すのを小耳に挟んだ僕は思わず、「僕が手伝ったろか?」と割って入った。すると姉ちゃんは、「よしみちゃん(幼い頃からの僕の呼称は一般に<よしみっちゃん>だったのに、その姉さんだけは何故か、<っ>なしで<よしみちゃん>と呼んでいた)には無理やわ」と、まるでどこにでも転がっている<へなちょこ>学生のように扱う口調だったので、とっさに僕はムキになって、「できるよ。そのくらいのこと!大丈夫やて。試しにアルバイトで雇ってくれたら?ちょうど、もうすぐ春休みやから、その間だけでも」と本気半分、冗談半分、或いは、行きがかりで口が勝手に動いてしまった。
 中高の6年間も野球部で鍛えてきたし、コウバの仕事も小学校の頃から長年の経験があるつもりだった僕としては、自尊心がひどく傷つき、意地になってしまった。しかし、母の表情が少し強張っていた。「何を馬鹿なことを言うて。そんな暇があったら家のコウバの仕事をもっと手伝ったらいいのに」といった内心がその顔に現れているように思ったが、自分の意地を優先した。コウバの仕事では自分には一銭にもならないといった、普段からの口には出せない不満も作用していたはずである。
すると姉ちゃんは、「それやったら、やってもらおか?」と思いのほか、すんなりと僕の申し出を受け容れてくれたので、母としても反対などできなかった。

 大学には合格したものの、紛争が長らく続き、12月になってようやく授業が始まり、4月中旬までのたった5カ月半で1年分の授業を終えたものと見なし、その後には例年の半分くらいの一か月の春休みを挟んで、無事にと言うよりなし崩しに二年に進級させられることになっていた。
 そこで、その1か月間は週に6日、姉ちゃんのコウバに通い、重いプレスと金型相手の肉体労働に勤しむことになった。家業の手伝いでは報酬などもらえないが、これはアルバイトなので、ある程度の報酬はもらえるはずなので、どんどん増えていく酒代くらいはなんとか賄えるだろうという算段もあった。
 ところが、いざコウバに通い始めると、予想をはるかに超える重労働だった。コウバに慣れていると言っても、僕はそれまで一度もプレスの経験などなかった。あくまで<仕上げ>だけの経験で、それとプレスの仕事とはまったく別物だった。春だったからまだしも、それが真夏だったら、とうてい自分には無理と思った。姉ちゃんのように止むに止まれない事情を抱えた稀な例外を除いては、もっぱら成年男子だけの仕事と見なされていることにも、心底、合点がいった。そして、高校三年の夏以来、それまでに野球部生活で蓄えた体力などは、その後の一年半のふやけた生活ですっかり帳消しになったことも痛感した。
 
 8時から12時まで、1時から5時までの定時だけでも精一杯だった。あわよくば残業もして、姉さんを驚かせると同時に僕に対する評価を一変させようと目論んでいたのに、それどころではなかった。しかも、僕は自分の手の速さや正確さなど密接に連動する運動神経には相当に自信を持っていたのに、そんなものはいとも簡単に吹っ飛ばされてしまった。慣れない仕事という弁解も最初の1週間くらいは、少なくとも自分に対しては有効だったが、その後も相変わらず能率が上がらないことの言い分けになどなるはずがない。それどころか、当初の張り切り気分も次第にすり減って、疲れが蓄積してくるからか、仕事の能率はむしろ落ちて来そうな気配には慌てた。
 大会社に勤務後に、自転車でコウバに駆け付けて9時過ぎまで、時には鼻歌も交えながら手際よい作業を楽しんでいそうに見える日本人青年(30代前半)の仕事ぶりにも舌を巻いた。それどころか、既に中年も盛りで、子どもを5人も産んだ母親の身で、色白の顔を紅潮させながら、精力的に仕事をこなす姉ちゃんの気力と体力には驚嘆し、敗北感をかみしめた。
 一人前のつもりだった僕の体力不足や手際の悪さを見守りながら、姉ちゃんは時には苦笑いを交えながら、「無理することないよ、自分のペースでええねんから」などと気を遣ってくれたが、その言葉を聞くたびに恥ずかしさが募った。
 約束の一か月が終わり、封筒に入った給料を受け取った時には、心底、ほっとした。封筒中身は僕が予想していた額よりも少しだけ少なかったが、自分の仕事ぶりを考えると、仕方ないと納得するばかりか、自分が情けなく恥ずかしかった。
 そんなことがあったので、姉さんの僕に対する信頼感とまではいかなくても、少なくとも親近感が増したのか、或いは、そんなことよりも、姉さんの事情がよほどに切迫したからか、それから約一年後には、姉さんからプレス仕事とは別のアルバイトの話が持ちこまれた。
M兄ちゃんの没後、何かと姉さんを手伝ってくれていた2歳下の妹さんが、急に遠方に転居することになったので、その後釜になりそうな人を探しても見つからなかったらしい。
 その仕事とは、一日に一回、姉ちゃんのコウバに出向いて、姉ちゃんの指示通りに納品書や請求書などの簡単な伝票を書いて、車で約15分の距離にあるA社に納品するといった、実に単純なことだった。だから誰にだって簡単にできそうなものだが、商売をしていると、むやみに人に知られたくないことがあるので、よほどの信頼関係でもなければ任せにくいと言うのだった。
 そんなことならば、姉ちゃんが自分でそれをやれば済むのに、姉ちゃんにはそれが出来なかった。口には出せないコンプレックスが姉ちゃんにはあったのだが、僕自身がそれに気づいたのは、随分と後になってからのことだった。非就学のせいで、文字の読み書きができないことが、非常に不便なばかりか、自尊心を傷つけるものという実例が間近にいて、日々、その様子を見ながら育ってきた僕なのに。そう、僕の母のことである。
 姉ちゃんのコンプレックスの内容自体は、僕の母ほどには深刻ではなかった。日本語の文字がある程度は読めるし、書くことだってできたからである。しかし、一時は学校に通っていたこともあったが、なにしろ在日の大家族の長女という立場もあって、幼い頃から家事に忙しくて、しかも、机にじっとしておれる性格ではなく、勉強なんてお金にならないといった<潔さ>もあって、きちんと学校に通わなかった。しかし、そのせいで、文字を書くのが苦手で、人に見られる荷が恥ずかしいといった、自分の文字に対する深いコンプレックスという形で跳ね返ってくることになった。その上、自分の容姿や運動神経、世渡りの術その他の様々な能力にはすごく自信があったので、それと反比例するように、わずかな欠点である文字コンプレックスが負担になってしまったのかもしれない。その文字コンプレックスが露見することを危惧して自動車学校にも行かないので、運転免許も取れるはずがなかった。
 しかし、それはたんに本人が抱え込んだコンプレックスに過ぎず、文字はなるほど拙くても十分に書けたし、文字を読むこともできないわけではなかった。だから、僕がそのアルバイトを辞める際に、ギアチェンジの必要がないオートミッション限定免許という制度も既にできたので、それであれば随分と容易に免許が取れるからと強く勧めると、ついには覚悟を決めて、自動車教習所に通い、ついには無事に運転免許を取得した。その時には、わざわざ我が家を訪れて、「よしみちゃん、おかげさまで、免許とったで」と実に嬉しそうに報告してくれた。その後は、化粧と派手な服で身を固めて、ご自慢の乗用車に乗って颯爽とゴルフに出かける姿も見かけたことがある。
それはともかく、僕にアルバイト話を持ちかけた頃、姉ちゃんは即座に手伝いが必要だった。<兄ちゃん>が残し、姉ちゃんの妹さんが独り占めしていた高級乗用車を自由に使ってよいという付帯条件まで付いていた。しかし、それ自体はその妹さん以外に、その車を必要とする人物などおらず、宝の持ち腐れになってしまうからでもあった。
 報酬は月に3万円、納品に要する時間は日によって多少の違いはあるが、たいていは1時間足らずで済むので、週に2時間を2回で月に1万円くらいが相場だった家庭教師と比べても割のいい話だったし、少しは姉ちゃんの役にも立てそうなので、引き受けないわけにはいかなかった。登校前か、下校後に立ち寄れば簡単に済んだから、学業への障害にもならなかった。
 そして、そのアルバイトをするうちに、僕は思ってもみなかったことを知るようになった。
 姉ちゃんのコウバの仕事の殆んどすべての受注先であったA社は、我が家のコウバとも関係があったので、僕はそれ以前にも何度か訪れたことがあった。実は、我が家のコウバが別のB社を間に挟んで、孫請け仕事を受注していたのがそのA社だった。
 我が家のコウバはそのB社から受注していたので、納品もそのB社にするのが筋で、普段はそうだったが、何かの事情、例えば、急を要する場合には、B社からの指示で、納品書はB社に、製品はA社に届ける場合もあった。そんな場合には、B社からA社に、我がコウバからの納品書に相当の価格を上乗せしたB社の納品書が別途に送られていたはずである。僕らにその内容を知られることをB社が望むはずもないので、僕らがその内容を知るわけもないのだが、ある程度の上乗せがなされているくらいのことは当然、知らないわけがなかった。
 ところが、僕が姉さんのコウバからの納品のためにA社に赴いて、事務所に納品書を提出しに行くと、不思議なことに全員が出払っていて、受付の棚の上に、我がコウバがB社に納品した製品をそのままB社がA社に納品する際に、B社名義に差し替えた納品書が、中身が見える形で置かれているのが僕の目に入った。そしてその納品書では、我がコウバがB社に納品した際の価格の倍以上の価格が記されていた。そんなことくらいは推察していた僕だったが、それほどの多額の嵩上げは想定外だったから、自分の目を疑うほどだった。
 それにしても、B社がA社に納品した際の納品書がどうして僕の目に入ったかは、やはり不思議である。いろんな下請け業者の納品が立て込んで超多忙だったので、書類の扱いもぞんざいになっていたのだろう。そうした事情も含めての偶然にすぎない。しかし、その偶然はある種の必然の枠内での偶然とでも呼べるのではなかろうか。
そうした業種の下請け、孫請けには在日の零細業者が多く、その元受けや間に割って書類一枚で多額の利益を抜きとってしまうブローカー的な会社のほぼすべてが日本人経営者の会社で、結果的に在日は圧倒的に搾取される側にいて、その搾取される業者の息子である僕が、中間の馬鹿げた搾取を免れている業者の配送専門のアルバイト生としてA社に出入りしていたからこそ、それが発覚するような偶然も起りえたからである。
 そしてまた、そうした二つの納品書の照合が記憶の力も借りてできるようなアルバイト生の僕が、地縁、血縁が何重にも絡んで、そんな場に紛れ込んでいたことは、まさに在日的与件がもたらしたものだったのではなかろうか。
 それ以来、姉ちゃんのコウバのアルバイトでそのA社に納品に行く度に、僕はそれとなく同じようなことが目撃できるかもしれないと眼を光らせるようになった。そしてそのあげくには、その種の中間搾取の証拠を探し求めていそうな自分が、何かさもしいことでもしていそうな気になって、そんな自分に嫌気がさした。
 たとえ、そうした厳しい現実を確認できたとしても、それに対して何一つ、まともな対応などできそうにない自分の無力さを思い知るのも嫌だった。だからと言って、自分が将来に父の仕事を継ぐことになった場合、接待に励むことで中間搾取を減らせるようになるとも思えなかった。だからこそ、そのアルバイトも辞める潮時だと思い始めた。ところが、姉ちゃんの状況を見る限り、自分が辞めると即座に困ってしまうことが目に見えている。辞めるという一言を口に出せなかった。

<下請け孫請け>泣かせのブローカ―の小間使い体験

 しかも、そんな中途半端な気持ちで揺れ動いていた僕に、そのアルバイトの縁でさらに別のアルバイトの話が持ち込まれて、僕はまた別の角度から、発注会社と下請け会社の間で暗躍して利益をかすめ取るブローカーの接待の現場に立ち会う羽目になる。

 大会社から下請けへの発注関連の責任部署の人々に対する協力会社、もしくはブローカーによる接待の現場に居合わせて、そのきわどい言葉のやりとりとその男たちを取り囲む着飾った女性陣たちの醸し出す異様な雰囲気の中で、接待の効能をまざまざと目と心に刻みこんだ。そして、僕の父のような、「まじめにやればいつかは報われる」といった性善説めいた倫理など、殆んど無効なことが、この世にはごろごろ転がっていることを思い知らされる。

 因みに、この種のプラスチック製造会社にまつわるブローカーとは、一般にプラスチック成型用の金型製作会社の社長や責任ある部署の人物、或いは、金型製造技術を備えた個人が多かった。
 新たな製品が必要になると、会社は金型会社に新たな金型の製作を発注して、それが完成すると、金型会社はその報酬を受け取って終わりの場合もあるが、そうはならないことも い。その金型を用いて、製品を製造する下請け会社を探さねばならないので、手っ取り早いには、金型製作会社、もしくは個人に、その下請け発注まで一括した一連の仕事を発注する場合がある。すると、金型会社は自社で造った金型を用いて製品の製造を引き受ける製造会社に下請けに出して、自社に納品させて、それを最初の発注社に、納品書を自社煮物に差し替えて転送する。
 他方、それとは違って、下請けの成型業者の選定を金型製作会社に別途に依頼することもある。すると金型会社は、そのような下請け会社を紹介して、そのマージン(紹介料)を発注する側と受注する側の両方から受けとるシステム(つまり、納品書や請求書は、その会社が発行する)を創り上げて、書類一枚で大きな利益を確保するといったことになる。
 上記のどちらでも、形は違っても、金型会社もしくはそれに準ずる、金型製作の技術を持った個人が、いわばブローカーとして活躍することに変わりはない。そしてそのシステムの便利さが病みつきになり、ブローカー稼業がむしろ本業になって、本来の金型製造はもっぱらそうしたブローカー稼業を成立させるためだけの仕事にすぎないものになったりすることも多い。
 若くして亡くなったM兄ちゃんは、そんなブローカーたちとも親しく付き合っていたからこそ、その縁の延長で、M兄ちゃんは亡くなっても、未亡人のM姉ちゃんがその後を引き継いで、小さな金型会社を経営する一方でブローカー稼業を盛んにしていた人物と親しい関係にあり、僕もまたその人とは顔見知りだった。そして、その人が 

 交通事故を起こしたせいで運転免許停止の処分を受けてしまったので、その臨時運転手のアルバイトの話を、M姉ちゃんが僕に持ちかけて来たのである。
 僕はその人に対しては何かしら不快な既視感のようなものもあったが、姉さんのたっての願いということもあって断り切れず、最初は一回きりの話だったが、それが二回三回と、ずるずるとその人の運転手役を引き受ける羽目になった。
 しかも、その運転手というのは、通常業務というより、関連会社の(下請けに発注する会社の重役や発注担当の職員など)への接待の際の送り迎えという、いわば裏の仕事の場合が多かった。大阪のキタやミナミの歓楽街、さらには遠く名古屋の春日井まで遠征しての接待の運転手役だった。先ずは昼間にその会社の本社を訪れて、きとんとした挨拶を交わし、その夜の段取りをつける。そして夕刻から、先ずは料亭、次いでは高級クラブ、そして最後は、接待先の会社員が常連の何かきわどいスナックと三回も場所を変えての接待を終えた時には既に真夜中で、大阪に戻ると明け方になっているようなこともあった。
 僕はあくまで臨時の運転手にすぎないので、接待の現場である料理屋や会員制の高級クラブにまで付き添う必要があるはずもない。それに僕は、運転手役だから酒を飲むわけにはいかないし、接待の現場である飲み屋にまでついて行きたいなどとは思わない。しかし、その当時はまだ携帯電話のような便利なものなどなかったから、その飲み屋の近くのどこかで待機して、携帯で連絡を受け次第、お迎えに直行するなんて芸当は無理だった。それに金型屋の親父としては、すぐそばに僕がいて、用事が終わればすぐに僕の運転で帰路につきたかったのか、僕を接待の現場のクラブやバーに連れて行きたがった。

 僕は料理屋で酒も飲まないで、接待の現場の隅でひとり食事するのだから、いくら豪勢なものでも有難くなんかないし、クラブなどで着飾ったホステス陣が腿の上にさりげなく手を置いて、緊張する僕を揶揄ったりとちょっかいをかけてくるのは甚だ苦痛で、しかも、香水のにおいも堪らない。しかも、そんな時に自ずと緊張してしまう僕の顔つきや挙動をネタにして、いい歳の大人たちが下ネタ中心で盛り上がる場にいるのは、若造の僕としてはすごくきつい時間だった。金型屋の親父は余興のつもりで、大学生の青二才である僕をわざと同席させている気配もあった。「お前なんか、まだ青二才の小便垂れだ」と、その親父の顔つきは言っていそうに見えた。
 しかも名古屋の場合は、夜中になってようやく帰路についたが、名神高速道路の岐阜県から滋賀県のあたりはひどい濃霧で、殆んど何も見えない中を、後部座席ではすっかり酔っぱらって眠り込んでいる金型屋の親父の鼾まで聞きながら、僕一人だけが手に汗を握りながらの命からがらの運転で、大阪に着いた時には冷や汗で体中がベトベトになっているほどだった。
 ともかく、接待の現場での冗談めかした隠語を交えた掛け合いの内容を、僕はほぼ確実に把握していた。幼い頃から大人たちの話にそれとなく耳を傾けるのが僕の趣味のようなものだったので、その経験が生きていたのだろう。厳しい鞘当てのようなこともあり、時には金型屋の親父が僕に対する警戒心を垣間見せるようなこともあったが、僕や僕の家のコウバとは直接的な利害関係がないことを知っていたのか、むしろ僕が驚くほどに開けっぴろげな態度の方が多かった。僕に人生修行の機会でも恵んでくれているつもりだったのかもしれない。
 ともかく、そうした経験を通じて、金型屋などのブローカーがどれほど受注先の重役や担当社員への接待で、相手方に甘い汁を吸わせる一方で、自分はそれ以上の甘い汁を吸っているということが、僕には手に取るように分かった。つまり、本来ならば、下請け、孫請けの零細業者が汗を流して働いた代価として受け取ってしかるべき利益の多くを、その双方が了解の上で<くすねあっている>ことを確信した。
 僕の父などは、そんな接待などが苦手なタイプだった。時には焦って、そんな真似も試みたこともあったようだが、中途半端でうまくいかなかった。おそらく僕も父のそんな性分と生き方を受け継いでいるのだろう。しかし、それは人間
の良し悪しとはあまり関係ないことだと僕は思っている。生まれつきの性分なのだから、引き受けるしかない。そうでもしないと、自分がつぶれてしまいかねない。
 M兄ちゃん夫婦の小さなコウバが僕らの目には、すごくうまくいっているように見えた理由は大別して二つある。一つはやはり、金型会社を経営しながらブローカー稼業もすごく積極的に展開していた人たちとの友達付き合いがあっただろう。そのおかげで無用な中抜きの被害にあわずに済んだ。しかし、それはもう一つの要素があってこそ、効果が上がったのだろうと僕は思っている。それは果たして、M兄ちゃん夫婦の先見の妙なのか、或いは、ただの幸運なのかの判断は下せそうにない。しかし、我が家のコウバも含めて同業者の多くとは、いろんな事情が重なって別の道を進んだことが大きかったことだけは確実である。

 時代の趨勢でほとんどのプラスチックの成形業者が、初期投資の金額がプレスなどとは比較にならないほど大きく、そのせいでその初期投資を回収するためには、機械を寝かせることなく長時間労働を、しかも、受注の空白期間がないように発注先の言い値で受注することを余儀なくされて、結果として初期投資と機械の奴隷になるインジェクションに雪崩を打った。
 ところが、M兄ちゃんのコウバでは、そうした趨勢に逆らって従来のベークライトの設備と工法に留まった結果、同業者の大多数の<廃業>による空白といった希少価値が生じて、いわば特殊技能を高く売れるような状況に身を置くことができた。だからこそ、その強みで発注製品の値段交渉でも強く出たり、相手の弱みに付け込む交渉の技も発揮できたのではなかろうか。それは但し、規模が小さいからこそ、小さなパイの残りものの確保も可能だったはずで、そうしたことのすべてがこれまた偶然でもあり、必然でもあったのではなかろうか。
 僕がそのM姉さんのコウバの納品専門のアルバイトを辞めたのは、それを始めて1年くらい経った頃だった。既に半年くらいの時点で、上でも少し触れたことだが、辞めたい気持ちが兆していたのだが、最終的に辞めざるをえなくなったのは、母の言葉のせいだった。

 「おまえ、ほどほどにしとかな。お前に後ろ暗いことなんかないやろけど、人の目と口は怖いもんやから」と母は僕にだしぬけに言った。
 母は詳しくは言わなかったが、僕にはその意味がなんとなく分かった。未亡人の家に毎日通う大学生である僕のことを色眼鏡で見る人がいてもおかしくないし、母のその口ぶりからして、僕のことをよく知る人々の中で、特におばさんたちの中の遠縁のおばさんが、そんなことを、僕の母に対するいろんな意味での対抗心もしくは嫉妬も絡んで口にしそうな様子だし、それと似たことが他にもあった。或いは、その遠縁のおばさんが実際にそのようなことを口に出さなくても、母がそんな<余計な>心配をしなくてはならない状況になってきたのだろうと僕は妙に自然に納得して、それからしばらくして、キリの良さそうな時を選んで、姉ちゃんにアルバイを辞める話を切り出した。「辞めたい」ではなく、「学校の事情で辞めなくてはならなくなった」と姉さんには伝えた。すろと、姉さんも不思議なほどにすんなりと受け入れた。そして、その際の、僕のお為ごかしのような勧めを受けて、自動車学校に行くことを決めてくれた。万々歳だった。

 我が家のコウバはその後、プレスからインジェクションへという一般の趨勢に従った道を歩むが、受注製品の種類としてはかつての弱電関連一辺倒から、同じ電気関係でも輸出用の大型電気設備会社の下請けや、パチンコの機械の部品の下請けが中心となる。そしてそれらの受注総額の半分程度にあたるパチンコ機械の部品の受注については、個人で金型製造コウバを営みながら、しかし、むしろブローカー稼業とかけ事に精を出しているという噂の人物を通していた結果として、半年分の仕事が台なしになるばかりか、その倍以上に上る多額の貸金を借り倒されるなどして、大変な苦境に陥った。おそらく父がコウバを初めて最大のそして最後の危機だった。それでも辛うじて持ちこたえたのは、それまでの愚直なまでの時代遅れの勤勉精神による蓄積のおかげだった。そして、父が亡くなってからは、末弟が斜陽の坂を転げ落ちるような業界の中にあって、廃業者の大波の結果として残り物であるわずかな福のおかげで、今でもなお細々とその仕事を続けている。

 そんなわけなので、三洋との関係は我が家のコウバの、その後の長期にわたる数々の変遷を考えあわせると、それほど長期間でも、大きな比重を持つものでもなかった。しかし、創業して比較的に初期のことだったこともあって、当時の<主人筋>の三洋電機と言えば、ついつい味方する傾向が、少なくとも当時は幼かった僕にはすっかり浸透していた。それは悪く言えば奴隷根性かもしれないし、そんな自分の奴隷根性のようなものを自覚するからこそ、他人のそれらしきものにも過敏に反応してしまう。
 だからこそ、三洋電機、井植家、そしてその一族の不動産会社へと、これまた<三題噺>もどきの、それも他人様には殆ど無意味なこんな文章を連綿と書く羽目になった。読者の皆さんには、この場を借りて、改めてお詫びとお礼をしておきたい。

言い落したことのリカバリーなど

 最後に、塩屋駅前の商店街やジェームス山関連で言い落したことや、新たな情報なども合わせて箇条書きにしておきます。
① 塩屋商店街の旧眼鏡屋の店舗を引き継ぎ、ビールとキューバサンドを売り物にした「前向き屋」は閉店状態と記しました。しかし、つい先日、その前を通りがかったところ、開店していました。それ以前にも、開店している日があったのか、或いは、今回、久しぶりに再開にこぎつけたのか定かではありません。でもともかく、閉店してそれで終わりではなかったようなので、胸をなでおろしました。
 但し、店には顎鬚を長く垂らした主人以外のお客もごく限定されており、常連もしくは店主の仲間たちのような様子には変わりがありません。最初からそのような場のつもりだったのかもしれませんが、店というものはやはり開放性が緊要なのに、常連ばかりが目立つと、新規の客が足を踏み入れにくくなるものなので、商売としてはあまりよくない兆候のような気もします。しかし、僕が傍から余計な口出しをする筋合いでもないので、とりあえずは店の再開を喜び、今後もなんとか続いていくことを期待しています。

② 旧三洋電機研修所の玄関と思しき所への引き込み道路(幹線スロープの右沿道から西に入っていく道)の入り口に、遠隔操作で開閉する車止めチェーン、そしてその左側には塩屋土地とその関連会社の名前が並んだ標識が設置されたことは既に記しましたが、その引き込み道路についての新情報があります。
その道が、頂上から西方に斜面を下っていくと左側に見える地下施設と駐車場にまで通じていることを、先日の夕刻の散歩の際に、偶然ながら確認しました。その事実と、これまでに分かっていたことを合わせて考えると、その引き込み道路は、頂上にある旧三洋電機研修所と井植記念館という二つの建物と広大な敷地全体を囲みこむ環状道路の一部であり、ジェームス山頂上の二つのシンボリックな建物と土地の全体を<塩屋土地>が管理していることを証明していそうに思えるし、そろそろ何か本格的な動きが加速しそうな雰囲気があります。コロナ禍の状況が好転して外国人観光客の復活が見込めそうになったら、本格的にホテルの開業の可能性も十分にありそうな気配も?

③ その旧三洋電機研修所の敷地の一部、但し、幹線スロープからは研修所建物のせいで全く見えないのですが、頂上から西に向かって共同門(研修所と記念館の共通の門)に向かうと、左手に高く土台を設置したうえで、神戸市水道局の直径15m、高さ10mほどの水貯槽タンクが4つも設置されています。その脇の道路からだとそれを見上げることになり、その背後の研修所などは殆んど隠れてしまうほどです。
 研修所が建てられた当時には、せっかくの美観を著しく損ねるそのような施設の設置などは想定されていなかったはずです。したがって、そんな建造物を設置せざるを得なくなったか、その敷地の神戸市水道局への移譲(売買なのか、貸与なのか分からないが)には何かの止むにやまれぬ理由があるのでしょうが、そこまでのことを許すからには、行政との相当に密接な協力関係が窺われます。それまたジェームス山の歴史がもたらした何かでしょうが、それについて誰でも理解可能な言葉を持たない僕の限界です。。

 今回でひとまず<ジェームス山噺>は終わりとします。尻切れトンボのような中途半端な形になって、なんとも申し訳ないし、自分でも情けないことですが、現時点では以上が僕の精一杯のもので、ひとまずはそこから離れてみたいという気持ちが強く、いつか近い将来に何か新たな情報が入り、それを契機に再度の挑戦を試みる気力と体力が蘇れば、再論の可能性も少しだけ残しての退散です。
 次回からは本来の趣旨であった塩屋近辺の散策噺に戻ることにしますが、そこでもまた、いろんな道草をするなど、僕にふさわしい癖のある脱線や変化球が挟まれることになるのでしょうが、どうか、これに懲りませず今後もどうかよろしくお願いします。