玄善允の在日二世物語ー在日、大阪、済州そして・・・ー

済州出身の両親の次男として大阪で生まれ育った在日二世の呟き

「金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」の2


金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」の2

目次
第五章 語り手の意向に逆らった読み方の1―友達の呼称―(回想の視点)
第六章 語り手の意向に逆らった読み方の2ー教師の呼称―(訓育的言説)
第七章 語り手の意向に逆らった読み方の3ー訓育・教化の勇み足  

第五章 語り手の意向に逆らう読み方の1―友人の呼称―
 
 先ず、金時鐘の学友の姓名表記を検討する。テクスト上での二人の紹介にあたっては、漢字とその漢字の日本語音読みのフリガナが用いられている。李行萬の場合にはさらに、ハングル音がカタカナで「イ・ヘンマン」と表示されているが、すぐさま「当時はありえなかった」との文言が続き、それ以後はそのハングル音のカタカナ表記は姿を消す。
 他方の金容燮の場合は、民族名のハングル音のフリガナは一度も姿を現さないが、李行萬の場合の「当時はありえなかった」と同じ理由、つまり、植民地の行政当局が許さなかったからという理屈に基づいてのことだからと、その文言の反復を避けたのだろう。
したがって、二人の姓名表記については民族名の漢字表記とその日本語音読みのフリガナ表記の二つが採用されていると見なしてよかろう。
 ところが、そのうちの日本語音読みのフリガナ表記が、筆者には甚だ不可解なので、その違和感を切り口にして、このテクストにおける姓名表記の特異性に焦点をあてて検討する。
 回想記の体裁をとったテクストで、李行萬のことを<リ・コウマン>というフリガナ表記で紹介するのはふさわしくない、と筆者は考える。それには主に二つの理由がある。一つは、その呼称の使用時期と頻度、さらには環境といったように総3点における限定性、もう一つは、その呼称の<まがいもの性>が、その理由である。
 先ずは、使用時期と頻度、そしてその環境の限定性だが、なるほど李行萬はそのように呼ばれていた時期もあっただろうが、それはごく限定された時代と期間、そして環境でのことだっただろうからである。
 例えば、幼少期の家庭や親族その他の日常生活では、生誕時に命名されたハングル音の<へンマン>、もしくはその後ろに<イ>や<ア>を付け加えた<へンマニ>もしくは<へンマナ>が使用されていたのだろう。そして、後には、とりわけ創氏改名後には、公的には「クニモト・コウマン」と呼ばれるようになったに違いない。
 『同窓会誌』の卒業生名簿では、漢字で国本行萬と表記されており、それを日本語音読みで発話すれば、そのようになる。したがって、当時の卒業式で卒業生ひとりひとりが名前を呼ばれて卒業証書を受け取る形の儀式が行われていたならば、その人物は「クニモト・コウマン」と呼ばれて、国本行萬と記された卒業証書を受け取っていたはずである。
 但し、金時鐘たちが普通学校(1937年度までは普通学校、1938~1940年度は小学校、1941年度以降は国民学校と改称するが、読者の便宜のために以下では統一して小学校と表記する)に入学したのは創氏改名以前のことであり、その当時は日本式の姓を名乗っていない生徒も少なからずいたはずで、もし李行萬がそのひとりだったならば、公的な場でも民族名のハングル音である<イ(もしくは、リ)・ヘンマン>と呼ばれていたのだろう。後にはそれが、漢字の李行萬の日本語音読みの<リ・コウマン>に、創氏改名後には生徒全員が一律に、<クニモト・コウマン>のような日本語音読みの呼称となり、その名前で卒業したのだろう。そして、1945年の8月に植民地からの解放を迎えるまで、社会的には、但し、公的な場に限っては、その名で呼ばれていたに違いない。
 以上のような状況変化に則っとれば、李行萬がテクスト上で漢字に付された日本語音読みのフリガナ「リ・コウマン」と呼ばれた時期は相当に限られていたし、あくまで公的な場に限られていた。例えば、子どもたちだけなど、ごく私的な環境(学校以外の子どもたちの日常の生活空間)では、小学校に通っていた時期にも幼児期の<ヘンマニ、ヘンマナ>が継続して使われていたはずであり、公私両面でシステマティックに<リ・コウマン>と呼ばれていた時期はごく短期間だっただろう。

(注)資料として挙げたことだが、筆者が2回にわたってインタビューを試みた方は、「・・・朝鮮語の授業も週に1時間程度はあった。但し、3年生の1941年までのこと。生徒たちはハングルの文章を読んだり書くことはできた。4年生からは完全に朝鮮語は廃止で、校内でも学外でも禁止となった。ただし、家では朝鮮語だった。友達とは朝鮮語と日本語の併用だった」と証言している。その証言内容からすれば、その方は北小学校で金時鐘より1年上級だったようで、ハングル使用に関する証言も金時鐘の語りとは多少の差異がある。とりわけ北小学校の生徒一般の朝鮮語能力に関しては、金時鐘の語りによって読者が想定しそうなものとは相当に異なっており、筆者としてはごく自然に合点できる内容である。

 しかも、学校教育を受けたことなど一度もなく、非識字を強いられていた女性(祖母や母や姉妹や親戚や近所の女性たち)に囲まれた子どもの日常生活では、創氏改名以後も従来の「ヘンマニ」という呼称がそのまま使われていただろう。子どもの親密圏では、行政の指示命令に添って、子どもの呼称を変えるような器用さも、その能力も持ち合わせず、或いは、例えその能力があったとしても、そんな面倒など忌避するような人々も少なからずおり、「ヘンマニ、ヘンマナ」が使い続けられていたものと推定される。

(注)私事で恐縮だが、このあたりは昨年に100歳で亡くなった筆者の母の記憶が強く反映した記述となっている。母は一生涯、日本でも韓国でも、周囲が筆者のことをどのように呼ぼうが、筆者のことを「ヨシミツ」としか呼ばなかった。命名の時に、父に教えられたのがその音声だったのだろう。彼女は筆者の名前を、ハングルでも漢字でも書けなかったし、書こうともしなかった。但し、年老いてから夜間中学で学んだひらがなやカタカナでなら、その「よしみつ、或いは、ヨシミツ」と書けた。

 以上のように、実在人物の姓名の漢字表記に付されたフリガナの<リ・コウマン>などは相当に限定的な期間のもので、しかも、例えば教師や警官その他の監視の目が光る公的状況に限られていただろう。
 創氏改名の以前には<イ・ヘンマン>、そして以後には、公的には姓は<リ>でも<イ>でもない<クニモト>が強いられたとしても、ごく私的な場においては、それ以前の呼称がある程度は使用されていただろう。
 ところが、金時鐘の回想記における人物紹介では、そうした時代の変化につれての姓名・呼称の変遷や、公私その他の環境の差異に応じた変化の一切が切り捨てられ、もっぱら特定の価値観に基づいていそうな呼称が採用されている。
 創氏改名その他によって押し付けられた姓名など、自分の書き物においては断じて用いるまいといった、書き手の原理原則と固い意志に基づいてのことだろうと推定して、尊重すべきと思いはする。
 しかし、その種の原則や意志に基づく姓名の表記が、はたして歴史的現実の回想に相応しいものかどうかについては、疑いがある。いかに植民地行政その他の権力によって強いられたものであったとしても、それを書き手の原理原則に基づいた名前で一律に排除するのは、過去の実相を記述する回想記にはふさわしくないのではと、筆者は納得しにくいのである。
 しかも、この回想記が採用している<民族的姓名>らしい<リ・コウマン>は、先にも触れたように、<正しい民族名>などではなく、書き手の意図を汲んで百歩譲ったとしても、正しい民族名<もどき>の域を越えない。
 このテクストにおける<リ・コウマン>などの日本語音読みのフリガナの呼称は、過去に実際に使われていた呼称の再現とは言えず、だからと言って、書き手の主張らしい<民族的に正しい原則>としてもふさわしくない。それは甚だ恣意的なものであり、そうした<恣意的命名>による歴史の語りは回想記とはほど遠い。
 このテクストで呼称・姓名に対してなされているのは、敢えて言えば、過去に実在していた人物に対する書き手の<命名権の濫用>であり、それはおそらく<特定の視点の特権化>によってこそ可能となる。
 その<特定の視点>とは、このテクストが書かれ・刊行された1980年前後の金時鐘の立場や歴史観や価値観に、さらには、著者の金時鐘が主たる読者と想定していた人びとの期待の地平に沿わせた視点だった。
 そうした姓名に付されたフリガナは、1973年の学年途中に兵庫県の県立高校の専任教員の辞令を受け、定年以後も非常勤講師など、長年にわたって勤務していた教育現場における金時鐘の姓名<林大造、リン・タイゾウ>に直結していそうである。
 逆に言えば、その日本語の音読みによるフリガナと、その物語内容の時代(金時鐘の小学校時代)からすれば約30年から40年後の、兵庫県の高校における金時鐘の公的姓名との同質性こそは、このテクストの宛先、つまり1980年前後に書かれた金時鐘のテクストの読者として想定された人びとの存在を照らし出す。
 金時鐘こと林大造<リン・タイゾウ>の延長上に、<リ・コウマン>があり、<キン・ヨウセツ>があるなど、この回想記で主として参照されているのは、1940年前後の済州の現実であるはずなのに、実は1980年前後の神戸における書き手の現実が大きく干渉し、過去の事実ばかりか、その意味付けなども、時には本質的変化を被っている可能性がある。

第六章 語り手の意向に逆らう読み方の2ー教師の呼称―

 前章における、友人たちの姓名に関する書き手の<命名権の濫用>は、特定の視点の特権化によってもたらされた。筆者のそうした推論もしくは仮説を、本章では教師の姓名表記にも援用して検討する。
 教師の中でも特に、「金田」先生(新書版では「豊田」と変わっているが、ここでは「はざま版」の金田に統一する。
 金時鐘が50歳前後に書いた「はざま版」では、小学校6年時の担任の姓を金田としていたのに、その約30年後の80歳前後になって、  それが豊田に変えられたのは、正しい記憶が蘇ったのか。或いは、誰かの教示でもあったのかと、編集者に問い合わせの書簡を送ったところ、編集者は一切、介入していないとの返信を頂いた。その他、著者に何らかの意図があったのかも知れない。しかし、金時鐘の済州時代の愛憎が甚だしかった教師の姓名でさえも、その程度の記憶なんて信じがたいところもある。それでもともかく、その金田と永田陽次郎という二人の教員に関する際立った対照性に注目しながら検討を進める。
 金田は朝鮮人、永田陽次郎は日本人。前者は朝鮮人生徒に対して暴力も厭うことなく皇国臣民教育を実践するなど、日本帝国主義の植民地教育の尖兵で、その褒章としてなのか、代用教員から訓導へと這い上がった。後者は、宗主国である日本の正真正銘の国民でありながらも、植民地朝鮮の子どもたちへの共感を惜しまず、身をもって民族間の障壁を越えようと努める人物として描かれる。
 そうした対比を強調するためなのか、前者は日本風の姓の<金田(先生)>と呼ばれ、名は一度も挙げられない。それに対して、後者は全人的教育者として生徒たちの共感と尊敬の対象として慕われていたことを示す為なのか、永田陽次郎とフルネームで表記されている。
 以上のように、このテクストの姓名表記には書き手の価値判断が明確に込められていそうなのである。しかも、金田に対する悪意や敵意が尋常でないのに対して、永田に対しては<至れり尽くせり>で、これまた尋常ではない。
 金田に対しては、30年以上も後になってから復讐でもしているつもりなのだろうか。しかし、例えそのつもりだったとしても、書き手の金時鐘にそんな資格があるのか、と読者としての筆者は疑わしく思う。少年時代の少なくとも10歳代の半ば頃まで皇国臣民を理想としていた金時鐘少年にとって、金田先生は最も身近なロールモデルだったはずだからである。現に、その金田の勧めもあってのことだろうが、金時鐘は親にも内密に、日本内地の陸軍兵学校への入学願書を、他ならぬその金田に提出していた。それなのに、どうしてそれほど悪意のこもった書き方をしているのだろうか。
 その金田に暴力的に虐げられていた学友たちに成り代わって意趣晴らしをする資格についてはどうだろうか。悔い改めて別人として生まれ変わった金時鐘には、その資格が十分にあるという理屈だろうか。或いは、悔い改めのアリバイ証明として、つまり必須の義務として、そうしているのだろうか。そうだとすれば、なるほどと思えなくもない。
 しかしながら、やはり大人気ない印象が否めないし、さらには、恥の上塗りのようにも感じられる。糞みそに罵倒して腹いせしたくなったとしても、それを敢えて抑えて、或いは、その罵倒と並行して、その人物の内面に思いを巡らしてみるのが良識のある大人、とりわけ、反差別を標榜し、兵庫県の一斉糾弾闘争に合流するために特別採用された教師として、さらには、物書きとしての金時鐘が取るべき態度ではないのかと言いたくもなる。
 書き手の金時鐘が本当に自分の過去を悔い改めたければ、或いは、自分が悔い改めたアリバイ証明をしたければ、それほどひどかった同族教師の金田でさえも、或いは、そうだからこそかえって、その内面に少しは想像を働かせて、朝鮮人の<金田>がどうして、選りに選って同胞の子どもたちに対して、そんなひどいことまでして恥じなかったのかを、本人になり代わって考えてみるべきではないのかと。
 ところが、そんな気配は微塵もない。その一方で、日本帝国主義によって植民地化された国の子どもが、どうして皇国臣民を理想とするようになったかについては、その当事者の一人である金時鐘自身に限ってなら、それなりの説明がなされている。そして、そのおかげもあって、金時鐘自身は救い上げられている印象がある。ところが、金時鐘の担任だった金田は、もっぱら反民族的で唾棄すべ存在として指弾されるばかりで、救われる可能性などまったくなさそうな描き方なのである。
 その差はどこにあるのだろうか。金田は生まれついての悪人、反民族者であるのに対し、覚醒した金時鐘自身は、予めそのような道を歩むべく運命づけられた存在とでも言うのだろうか。
 ともかく、以上のような自他に関する不公平には、読者のひとりとしての筆者は驚くあまりに、ついつい想像を逞しくする。
金田は書き手である金時鐘の人身御供として登場を許されているにすぎないのだから、その役回りを十全に果たしているのだと。
そしてそのような観点からすれば、改悛して民族的に正しい道を歩むようになった金時鐘は、その金田を断罪することによって、本来なら自分が負うべき責任を金田に転嫁して、自分自身は免罪するといった、ひそかな論理と、それに沿った印象操作とが、テクスト自体に仕込まれていそうに思えてくる。
 そのような解釈をテクスト自体が許容するばかりか、要請しているように、筆者は感じる。書き手が紡いだテクストが、書き手によって想定された読者ではなく、普遍的に開かれた読者一般の一人としての筆者に、そのように要請していると。
 そしてその延長上では、このテクストにおける書き手の改悛は、自己否定などとは正反対の、自己救済の身振りといった印象がする。
 他方、永田陽次郎という日本人教師は、金田とは対照的に、十分以上に豊かな人間味を備えた人物として描かれる。宗主国の教師としては稀なことに、現地の朝鮮人の子どもたちに共感を抱き、学校の都合で生徒全員に裸足通学を強いることが決定されると、教師である自分も生徒と同じように裸足で通勤する。他の教師なら、ましてや日本人教員なら決して言うはずなどなさそうな、例えば、民族解放運動や左翼運動の正当性のようなことまで、それもまだ小学生だった子どもたちに語りかける人物なのである。
 書き手の金時鐘はその永田陽次郎先生に共感し、北小学校へのその教師の転入・転出についても、深い親愛と哀惜の情をにじませて、次のように記す。
 「一年かそこらで学校を離れていかれました。思い当たるふしがあるとすれば、私たちの聞きもしない話をよくしていた先生に、この永田先生はおられたんですね。・・・きっと強い社会意識がわざわいして、植民地くんだりまで配置転換させられたあげくに、またどこかへ召喚されて行った人のように思えてならないのです。」(46頁)
 なるほど、誠に美しい惜別の物語なのだが、それは二つの意味でなんとも不思議なものである。一つは、皇国臣民の申し子であった当時の金時鐘からすれば、その理想に反する永田陽次郎先生の言動に強く反発してしかるべきなのに、という疑問。さらにそこに、植民地朝鮮の教育行政の人事に関しての誤解もしくは無知の疑いが重なる。
 先ずは前者について考える。永田から教わっていた当時の金時鐘は、皇国臣民の理想に燃える少年で、そのために家庭では愛する父親とも言葉にならない葛藤・軋轢が生じるほどだった。したがって、永田陽次郎のような教師に共感するのはおかしいと考えるのが自然だろう。但し、その程度のことを盾にして、金時鐘の永田先生に対する共感を矛盾とか嘘などと断言するつもりなど筆者にはない。
人間はそもそも矛盾に満ちた生き物だから、皇国臣民イデオロギーにまみれた金時鐘少年でさえも尊敬できる人物として、永田のような日本人教師がいたとしても、矛盾しているとか嘘などと断定できない。永田はそれほど立派で魅力的な人だった、と考えれば、矛盾の疑いなど一掃される。
 しかし、それ以上に納得がいく解法がある。先に友達に対する呼称の検討過程で浮かび上がってきた、「視点の問題」を援用することである。
 永田に対するもろ手を挙げての肯定的評価は、その教師に教えられていた当時の少年・金時鐘のものではなく、朝鮮が日本の植民地から解放されて以降に、金時鐘自身が過去を改悛した結果ではなかったのか。さらに言えば、日本の教育現場における多様な差別との闘いの坩堝だった兵庫県の公立高校に就職して以降のものだったのではないか。そのように考えれば、すんなり合点がいく。永田に対する手放しの理解と共感は、皇国臣民を理想としていた頃の永田に対する反感、そして、それでも思わず抱いていた共感とのアンビバレンツを克服して以降の、しかも、金時鐘が自分のテクストの読者として想定した人々、とりわけその中心をなしていた反差別運動の主軸たる教員集団やその周辺の人々を叱咤激励するための、ロールモデルとして利用価値が高いものとして、過去から引っぱり出し、それに潤色を施した人物像だったのではなかろうか。
 もう一つの不思議とは、植民地朝鮮でも辺境の地であった済州の初等学校の教員人事があたかも日本本土(内地)の文教行政の人事管理システムで一括管理されていたと信じ込んでいたような記述になっていることである。そこには、植民地朝鮮のみならず、日本の植民地統治の、教育行政に関する無知と誤解とが露呈していそうなのである。
 植民地時代の朝鮮はさておくとしても、戦後日本の地方自治体における、市立県立などの教育機関における教員採用その他の人事システムを、その文章を書いていた当時には県立高校の教員だった金時鐘が知らなかったはずがない。その延長上で考えれば、師範学校にまで進学した金時鐘が、帝国主義時代に日本の植民地だった朝鮮における初等学校の教員人事を、日本内地の中央政府が一括管理していたと理解していたはずがないと思えるのだが。もし、彼がそのように理解していたとするなら、無知なだけでなく、想像力の欠如まで露呈していることになる。或いは、そんなことは端から十分に承知の上で、自らの永田先生賛歌に酔いしれたあげくに、良心的教員に対する教育行政によるお決まりの<左遷>物語に嵌りこんでしまったのか。或いは、永田を教師の理想像として差し出す自分の所作に酔いしれて、ついつい出来合いの教員弾圧の一環としての左遷物語に陥ってしまったのかもしれない。
 それにしても、不思議なことである。この文章が書かれ、読まれていた当時の金時鐘の読者の中核をなしていた人々、教え子たちの反乱を契機として差別問題に目覚め、教え子たちと共に立ち上がった、主に地方公務員としての教員たちが、金時鐘のそうした語りに幾重にも見られる無知や思い込みを含めた問題性にどうして気づかなかったのかと、疑問は膨れ上がる。
 それはさておき、金時鐘が衒学趣味と、過剰な思い入れを重ね合わせた日本人教師像には、読者に対する指導者的メッセージが露呈していることを、見逃すわけにはいくまい。
 その種のことを金時鐘はまず、兵庫県の一斉糾弾運動を先導する良心的教師集団その他を中心とした読者層に向けて語っているつもりだったに違いない。1970年代以降に日本の読書界で次第に地保を固めた金時鐘の散文テクストの読者層には、一斉糾弾闘争とそれに連なる教育労働者が中心的位置を占めていた。だからこそ、諸種の差別問題の関連図書を組織的に大量購入し、必読書としていた教員組合その他の反差別運動をリードする諸機関・団体を通じてその存在を知り、それらの機関団体が必読書として推薦していた金時鐘の文章を、まるで指導書として懸命に読み、学ぼうとしていた教員やその周辺の人々こそが、金時鐘ファンの中核を構成していた。金時鐘の永田陽次郎に関する記述は、そうした集団に向けてのロールモデルの提示、つまり、叱咤激励の性格も否めない。
 他方、その語りを聴いたり読んだりしていた教師とその周辺の人々は、金時鐘の過去についての語りの真実性について、少しは疑念を抱いたとしても、<在日一世>で<本物の朝鮮人>の知識人である金時鐘の言うことだからと、疑問を抱く自分の方がきっと間違っているのだろうと考え直して、そんな疑問を解決・解消していたのだろう。
 だからこそ、金時鐘は多様な差別についての知識の不足どころか、諸種の認識や表現の問題を少なからず含んだ議論を、あたかも自分の義務に履行でもあるかのように、嬉々として展開し、それが広範囲で歓迎されるようになった。
 以上のように、「物語の現在」よりも「書き手の現在」に由来する命名権の濫用と並行しての歴史的事実の軽視、更には、読者に対する阿りや<意識的言い落とし>も含んだ話法が、金時鐘のテクスト内に張り巡らされている。

(注)恩師を含めた教員たちに関する金時鐘命名権の濫用は、ここであげた二人の教員にとどまらない。生徒であれ先生であれ、登場人物のすべてに対して、金時鐘はシステマティックに命名権の濫用が敢行する。
朝鮮語教師だった禹先生には、ファーストネームがない。民族運動の恩師だった崔賢は「チェ・ヒョン」とハングル音のフリガナが添えられ、「おそらくはペンネーム」という但し書きが付されるなど、丁寧な留保がなされている。渡日後の詩と詩論の恩師は小野十三郎先生とフルネームで、このテクストに出て来る日本人はすべてフルネーム、朝鮮人は漢字一字の姓と日本風の姓に添えた日本語音読みのフリガナ、或いは、漢字のフルネームにハングル音のフリガナが付されて、時にはそれ自体がペンネームとされるといった按配で、そのすべてに書き手が意図を込めているように推察され、その意図もある程度は推察がつく。しかしここでは、その個別的解釈には立ち入らず、別の機会に譲る。

第七章 語り手の意向に逆らう読み方の3ー訓育・教化の語りの<勇み足>

 前章では主にテクスト上の姓名表記の特異さなどをヒントに、昔語りに関する金時鐘の話法を検討したが、数々のエピソードとその語り口にも、それとよく似た話法が組み込まれている。
 それは悪く言えば<できすぎて眉唾もの>という側面が否めないストーリーである。その種のものは、必ずしも三文ドラマの専売特許などではなく、政治的アジテーションから日常生活に至るまで、一般に幅広く使われている話法でもある。
 その類のことを筆者は既に、拙著『金時鐘は在日についてどう語ったか』の、例えば<詩はメシか?>と命名した章、さらには「さらされるものとさらすもの」というエッセイに関する分析において執拗に論じたことがあるが、「私が出会った人々」にもその方法を援用して有効性を再検証してみる。
 本章で取り上げるのは、民族主義思想・運動の恩師として金時鐘が尊崇していた崔賢(ニックネームとされている)とその恋人の<至純の民族的悲恋の物語>のエピソードであり、以下がその一節である。

 崔先生が愛された女性は、居酒屋、朝鮮語では「チュマク(酒幕)」と言いますが、そこで春をひさいでいた女、つまり私娼だった(・・・)官憲から追われるようになって、彼女に契りを迫ったんだそうですけど、彼女は頑として体を許してくれなかったと言います。日本人にはいつも売っている体なのにです。夜も白んだころ「私は梅毒持ちです」と言って部屋を出ていったのが、彼女との最後だったと言っていました。(・・・)私の体は梅毒だと言って顔も向けぬまま出て行った夜明けの話をなされていたとき、崔先生の横顔にはソーメンのような涙が、筋をひいて流れていました。それまで私は、涙というのは粒だと思っていたんです。が、涙は本当に筋をつくってソーメンのように伝うものなんですね。私はそれ以来、女を愛する男って本当に美しいんだなあと思っています。女の人はおごってはなりません。本当に愛する男は美しいものなんです。「性」もまた、果てしなく美しく、果てしなく傷つくものであることも知るべきなのです。私もずっと、崔先生の愛人を恋人にしています。(『はざま版』52-53頁)

 以上を読んで、筆者は直ちに二つのレベルで疑念を抱いた。一つは、崔賢がその弟子で、まだ16,17歳だった金時鐘少年に対して、涙を流しながらそんな話をしたというのは本当のことだったのか。次いでは、例え崔賢が金時鐘にそんな話をしたのが本当だったとしても、その話は崔賢の実話だったのか。要するに、両者ともに、エピソード自体の真実性に関わる疑いだった。しかも、金時鐘の語り口にも強い<ひっかかり>があった。あまりにも<あざとく>感じられたのである。
 そこで、先ずはその<あざとすぎる語り口>について、次いでは語られた内容についての、先に挙げた二つのレベルでの真実性を検討する。
 このテクストの随所に、その<ふし>があるのだが、とりわけ先に引用した「先生の横顔には・・・」以下の畳みかけるような息遣いには、字義通りの<口頭の語り>の気配が濃厚で、本来は講演速記(或いは録音テープを起こしたもの)だったものに加筆・修正などを施したテクストと推測される。そしてそれは、当時(1970年代から80年代にかけて)の金時鐘の<自分・在日語り>の散文テクストの多くに共通する特徴でもある。金時鐘は在日絡みの、但し、もっぱら日本人向けの講演会や研究会では客寄せとして引っ張りだこで、その際の講演の録音テープを起こしたものに朱を入れた散文テクストを、雑誌その他の求めに応じて次々に発表した。そうした本来は口頭による講演をもとに成立した散文で、日本の読書界で在日のオピニオンリーダーとしての安定した地位を確保した結果として、「詩集が売れない日本の読書界で、自分は谷川俊太郎に匹敵するほど詩集が良く売れる詩人である」と自ら豪語するに至る。

(注)『金時鐘は在日をどう語ったか』186頁~209頁参照、その他、『金時鐘の詩 もう一つの日本語』全記録、シンポジウム「言葉のある場所」、詩集『化石の夏』を読むために、もず工房、2005年参照)。因みに、金時鐘の『在日のはざまで』(立風書房、1986年)に収録されたすべてのエッセイの初出一覧が、その最後の頁に記されている。それによると、「私の出会った人々」の初出は、1980年1月、『岩波講座、子どもの発達と教育8、発達の記録と分析』で、他方、「クレメンタインの歌」は『言葉・詩・子ども』谷川俊太郎編、1979年4月である。一番古いものが、1970年11月の「諧謔、この朝鮮の内なる笑い」『文学』で、初出は70年代と80年代前半1986年まで、岩波書店朝日新聞毎日新聞などと関係する媒体が目立つ。中には、「講演」記録とされているものも目に付き、しかも、そのように明記されていないものの中にも、講演記録に加筆修正を施して雑誌などに送って公刊されたものが多くありそうなのだが、詳細は不明である。

 テクストのそうした成立経緯は当然の如く、テクスト内容に反映する。金時鐘の散文では、講演に駆け付けた人々の気持ち、例えば期待の地平を、聴衆の様子から目敏く感受し、受け狙いの巧みな話術を駆使していると感じられる部分が少なからずある。「私が出会った人たち」も一読すれば、随所でそうした事情が窺われる。漫才などで言うところの<突っ込み>、或いは、聴衆の期待を意識的に外した<ぼけ>や<いなし>に加えて、聴衆への<阿り>も交えるなど<ひねり>も効かしての「読み方の誘導」も顔をのぞかせ、そうした話法の総披露といった感もある。
 上で引用した一節などがまさにそうであり、最後の4行における、畳みかけるような語調には、語り手自身が酔っている気配もある。金時鐘の講演の聴衆の過半を占めていた日本人教員その他の中でも、特に女性たちに対する<突っ込み>を効かした受け狙いの、そして実際に受けたであろうセリフ回しも含めた話法の効果はてきめんで、満場の喝采を浴びて得意気な金時鐘の顔つきまで浮かんできそうである。
 だからと言って、金時鐘が非難されなくてはならないことなど何一つない。金時鐘の聴衆たちもまた、<阿ねられ>たり、<いなされ>たり<突っ込まれ>たりしたあげくに、日本人としての歴史的責任の自覚の甘さを<反省させられ>、そのことでかえって<カタルシスを覚え>て、明日の糧にするといった具合に、大いに満足して帰路についたのだろう。

(注)玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』における、『もう一つの日本語』に関するコメント187~188頁を参照。

 それはさておき、先の問いに戻りたいのだが、実はそうした問いと殆んど同時に、解答も、筆者の脳裏には浮かんだ。
崔賢とその恋人の物語は金時鐘の作り話でも崔賢の体験でもなく、閉鎖的かつ緊密な共同体においては、往々にして自然発生のように生成する物語だったのでは、というのである。
 そうした解の正しさを証明するものなど何一つないが、敢えて言えば、金時鐘のテクストの、特にそのエピソードの語り口が筆者にそのように思わせた。聴衆に対する押し付けめいた<師の涙の美しさへの賛辞>とその美しさにぞっこんとなった自らの感受性に対する自賛など、舞台上では金時鐘お得意の<大見え>が演じられる。
 その種の物語は共同体の紐帯を強めるのに格好のものだからこそ、あたかも自然発生のように集団的に創りだされる。指導者や成員は折に触れ、それを秘密めかしながら反復し、その集団の一員としての幸福感で高揚する一方で、自分自身や他者を拘束する。厳しい状況下で闘った末に勝利することを至上命題とする集団にとって、ほとんど必須のエネルギー源のようなものだろう。しかし、それは往々にして、特に女性や社会的弱者にとっては、ことさらに抑圧的に作用しがちであり、現代ならば、強く反発し嫌悪する人が少なからずいる。 
 時代のそうした潮流に対する配慮、もしくは警戒もあってのことか、「新書版」では、そのエピソード自体は削除される。しかし、それに代えてのように、恩師の言動に倣って、拳を潰しかねない武闘訓練に励んだあげくに、母親を大いに心配させたエピソードが新たに採用されている。男性ふたりの師弟間における<血の盟約>めいた相互束縛に対する金時鐘の嗜好の片鱗が窺えそうである。そしてその結果として、削除されたエピソードにも実はそれに似た要素が潜んでいたことに気づかされたりする。
 批判を免れようとしてあるエピソードを削除し、他の類似したエピソードを代置する弥縫策がかえって、両者の奥底に潜んでいた本質を露呈する効果をもたらすこともある。テクストが備える<正直さ>には、今更ながらに驚く。
 現在ではどうか定かではないのだが、1980年頃にはまだ、体制に対する激しい異議申し立て運動を展開していた人々でさえも、そうしたエピソードにもろ手を挙げて感動するような人が、女性も含めて多くおり、そのような人々が金時鐘のファンの一極を構成していたのかもしれない。
 それだけに、崔賢の純愛物語の真偽、つまり、それが実話か否かだけを問題にしているわけにはいかず、実話であろうとなかろうと、そうした物語がたちまちのうちに信じられるばかりか、広範囲に流布してしまいがちな、リテラシ―の水準とメカニズムに関心を向ける必要がある。あたかも自動運動のように生起するそうした現象に関して、語り手の金時鐘に責任がないと言えるはずもないのだが、金時鐘ひとりではなく、むしろ書き手と読者の共犯関係を問題とすべきだろう。
 書き手は予め、そのような効果も見込んで、或いは、むしろそういうことを目指して、文章を書き、読み手は書き手が想定する以上の強度と濃度を備えた物語としてそれを再創造するからこそ、その種の物語の社会的影響力は巨大にものになる。
 売春で辛うじて生き延びている身の上なのに、さらには梅毒にも感染するなど、幾重にも不幸な女性の献身的で民族的な心映えが導き出したとされる男の涙の美しさを、自らのファンである聴衆、とりわけ女性の聴衆に対して、称賛するばかりか説諭し押し付ける気配まである金時鐘の語り口は、恩師の教えに従って大義のために邁進する自分自身の美しさを自賛する気配もある。そうした心理的回路を強力に支えるのが、ジェンダーバイアスであることが少なくないことも、断じて忘れてはなるまい。
 以上の議論は、フェミニズムがようやく一定の発言権と影響力を行使するようになった現時点から、そうでなかった過去の事象や言動を裁断する趣もあり、公平を失している。それを承知しながらも、そうした危険をはらむ物語を批評的に検討して、読者としての仲間である人々に対して、その危険性を指摘するばかりか、免疫的リテラシーのモデルの一つを提示することもまた、読者の義務であると同時に権利に違いない。
 (「金時鐘とは何者かー<自分・在日語り>の済州篇―」の3に続く)